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かしらであるキリストに向かって成長するのです

静まりの時 エペソ4・14~15〔成熟する信仰〕
日付:2025年01月14日(火)

「こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。」
(14、15)

 「私たちはもはや子どもではなく」。
 イエスさまは、子どものようになることを勧められましたが、その子どもと、ここでパウロの語る子どもとは全く違うものです。イエスさまの言われた子どものようになることは、パウロの語る子どもでなくなることです。かしらであるキリストに向かって成長すること、すなわち大人になることが、イエスさまの言われた子どものようになることなのです。
 信仰の大人になることとは、「人の悪巧み」「人を欺く悪賢い策略」から出た「教えの風」に「吹き回されたり」「もてあそばれたり」されないようにすることです。
 悪巧み、悪賢い策略、といいますが、実際エペソ教会で起こっていた問題は、2章8、に「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」とありますので、律法主義的な行いによる救いが語れてしまっていたのだと想像できます。そうすると、そこには、一見良い行いと見えるものがあったのではないでしょうか。表面的には悪巧み、悪賢い策略とは見えない。しかしそこにこそ「不従順の子らの中に働いている霊」に従う生き方があったのです。
 信仰の大人になることは、このような人間的な律法主義から自由になることです。そうして「愛を持って真理を語ること」です。それがキリストに向かって成長することなのです。
 パウロはここで、成長しなさい、といるのではなく「成長するのです」と言い切っています。新共同訳では「成長していきます」、共同訳では「成長していくのです」。まるでおのずと成長していくようなことばです。
 確かに成長という言葉は、周りの助けも必要ではありますが、もともとそれ自体に力があっておのずと成長するということなのだと思います。植物の種が発芽し成長していくためには諸条件が必要ですが、しかし種自体にいのちがあってこそ発芽し成長していきます。私たちが神さまからいただいた信仰は、それ自体にいのちがあって成長していくのです。
 成長する。それはイエスさまの言われた子どもになっていくことです。あるいはますます低きに降っていくこと、心貧しい者になっていくことです。それがキリスト者の成長なのです。


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