静まりの時 イザヤ52・1~10〔初めと終わり〕
日付:2025年 1月 4日(土)
6 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。それゆえ、その日彼らは、わたしが『ここにわたしがいる』と告げる者であることを知るようになる。」
「それゆえ」。
わたしの民、すなわちイスラエルの民が、わたしの名、すなわち神さまの御名前を知る。どのような理由があって、神の名を知るようになるのか。
ここにわたしがいる、と告げる者、それが神ご自身であることを知る。どのような理由で知るようになるのか。
前節に「さあ今、ここでわたしは何をしよう──主のことば──。わたしの民はただで奪い取られ、彼らの支配者たちは悲しみ嘆いている──主のことば──。また、わたしの名は一日中、絶えず侮られている」とありますから、民は略奪、支配者たちも悲しみ嘆きの中にある。そうして神の名が侮られている。それゆえに、「イスラエルの民」が「神の名を知る」「神こそ『ここにわたしがいる』と告げる者であることを知る」。
イスラエルを虐げていたアッシリアやバビロンが知るというのではなく、イスラエルがそれを知る。
そもそも神の名を知り、神こそ「ここにわたしがいる」と知っているはずのイスラエルが、苦境の中にあるがゆえに、それらを知るようになる。あらためて知るようになる。
苦しみによってそれらを忘れてしまっていた。信じられなくなっていた。それゆえに知るようになる。
あるいは、苦しみの中にあってこそ、それらを知るようになる。より深く知るようになる。
いずれであっても、神の名を知ること、「ここにわたしがいる」ということを知ることが、カギである。
私たちは喜びに出会って神を知り、また悲しみや苦しみに出会って神を知るのです。