静まりの時 黙示録22・6~21〔初めと終わり〕
日付:2024年12月31日(火)
6 御使いは私に言った。「これらのことばは真実であり、信頼できます。」預言者たちに霊を授ける神である主は、御使いを遣わして、すぐに起こるべきことをしもべたちに示された。
7 「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」
「この書の預言のことばを守る」とはいったいどのようなことであるのか。どうすれば守ったことになるのか。命令であるとか教訓であるならば分かるのですが、聖書の言葉はそれだけではありません。特にこの黙示録は、命令や教訓というよりも、終わりの時の様子が記されています。それを守れと言われてもかなり分かりにくい。
守ると訳されている言葉は、ほかに見守るとか、見張る、保つ、というような意味があります。守るということは、自分がそれを実行する、と言うよりも、ここでは黙示録の言葉がその通り実現していくことを信じていく。信じて神さまの前に希望を持って生きていく。そういうことではないかと思います。
8 これらのことを聞き、また見たのは、私ヨハネである。私は、聞いたり見たりした後に、これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。
9 すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。」
自分にみ言葉を語ってくれた御使いを拝もうとしたヨハネの気持ちは分からないではありません。この黙示録を説教と理解して、自らに説教を語ってくれた説教者に対して尊敬の心を持つことも無理からぬことだと思います。しかしこと「礼拝」は、神さまのみに献げるものです。間違ってはいけません。
神さまのみを礼拝することは、隣人に対して、また自分に愛を注いでくれた方に健やかな尊敬の心を持つことです。
10 また私に言った。「この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです。
11 不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」
12 「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。
13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
14 自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。
15 犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。
「いのちの木の実」は、創世記2章9節、3章22節に登場しました。人間の命に限りがあるのは、この木の実を食することが出来なくなったからである、と聖書は語ります。そのいのちの木の実を、食することが可能となるのです。すなわち永遠の命をいただくのです。
その特権は、イエスさまを信じて救われた者すべてに与えられます。しかしここでは「自分の衣を洗う者」と言われています。自分で自分の衣を洗うことのできなかった私たちでしたが、主イエスさまを信じて新しく生きるようになった者は、自分の衣を洗う者とされました。
16 「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
17 御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。
18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。
19 また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。
20 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
21 主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。
「来て下さい」。マラナ・タ。教会では礼拝などにおいて、アーメン、ハレルヤなどという言葉を使いますが、初代の教会では、このほかに、マラナ・タ、ホサナ、なども使われていたようです。
私たちは主の再臨を待ち望んでいます。主にある者は、待ち望みつつ旅を続ける旅人、天国を目指す巡礼者なのです。