静まりの時 イザヤ48・12~16
日付:2024年12月30日(月)
13 まことに、わたしの手が地の基を定め、
わたしの右の手が天を延べ広げた。
わたしが呼びかけると、
それらはこぞって立ち上がる。
聖書の神を信じる、ということは、創造主を信じる、ということです。世界のすべてを造られた神が存在する、その神は、今もすべてをその全能の力をもって守り支えておられると信じることです。
私たちも、作る、ということをしますが、そのすべては、材料があってのことです。すでにあった材料を、そのかたちを変えている、変化させている、ということです。
しかし神さまは、無から有をお造りになられました。材料を変化させたのではなく、何もないところに、新しく造られた、のです。
今世界に、あるいは宇宙に存在しているものは、ことごとく他の何かに依存しなければ存在できません。私は両親があったので存在しています。空気は、地球の重力があって存在しています。また分子があって成り立っています。光や熱は太陽があるからであり、太陽が燃えているのは、そこに何らかにエネルギーがあるからです。このようにすべては、他の何かがあるから存在できているのです。
にもかかわらず、こうして歴然と存在している、ということは、その元を求めていけば何に行き着くのでしょう。必ず、最初に、無から有が生まれた、ということに行きつくはずです。
しかしこの世界のすべては他の何ものかに依存しなければ存在できないのですから、その最初に無から有が生まれたのには、この世のことわりではない何か、が必ずあったはずです。無から有を生み出すことができる何か。
こうして創造主の存在は、論理的に証明が可能なのだと思います。
しかし聖書の語る創造主は、それだけではありません。どうしてそのようなことがなされたのか。創造主はいったいどうしてそのようなことをなさったのか。
聖書は、そこに「愛」がある、と語ります。
すべてのものが造られた理由は、神さまの愛である。こうして私たちが存在しているのも神さまの愛があるからだ。そしてそれは理由であるとともに目的でもある。すべてのものが造られたのは、愛するため、である。私たちがこうして存在しているのも、愛、のためである。
ですから私たちはこの、愛する、ということをするときに「生きている」という実感をいただくことが出来ます。逆に生きるということば難しくなってしまったとすれば、愛が見失われているからです。
しかし果たして愛が見失われているのか。愛が無くなってしまっているのか。
ある神学者は、すべてのものは、よい、を求めている、と言いました。この「よい」はあらゆるところに見出すことが出来ます。倫理道徳の面だけではありません。たとえば、私たちが大根を買おうとするときに選択をしますが、そこで「よい」大根を選ぼうとします。そのよいは、値段が安いということかもしれませんし、新鮮である、ということかもしれない。あるいは大きいということかもしれません。銀行強盗をする人も、何らかの犯罪を犯そうとする人も、そこで効率が「よい」方法を選びます。
しかしよいを選ぼうをしているのに、結果的によくならないのは、よいを求めること自体が間違っているのではなく、その方向性が間違っているのです。
これは、よい、ということについて考えたことですが、これを、愛する、に置き換えても同じように考えることができると思います。
私たちは、愛している、また愛そうとしている、あるいは愛されたい、愛されようとしている。すべての人がそのように考えている、願っていると思います。しかし必ずしも良い結果を生むことにならない。それは愛の方向性が間違っているからです。私たちの問題は、愛していないことではない、その愛していると思っている愛が、ゆがんでしまっていることなのです。
愛の方向性。愛がゆがんでいる。愛が間違っていること。的を外していることを。それを聖書は「罪」と言います。罪から贖われて義に生きる(生かされる)ということは、正しい方向性をもって愛するということです。
人間にはその力がありませんでした。せっかくそのように造られたのに、それが出来なかったのです。それは神の創造に問題があったのではなく、人間に与えられた自由意志を乱用してしまった人間の問題です。
神はその人間を救おうと願われました。なぜなら、神は愛、だからです。
そのために御子イエスさまをこの地に遣わされました。神であるお方をまことに人としてこの地に遣わされたのです。そうして正しく愛する道を成し遂げて下さいました。すなわち父なる神さまに向かっての愛に生きられたのです。ここにまことの的のあった愛し方があります。
的外れの愛から解放される。それは、まず神を愛する、ことです。そうしてその上で自分を愛する、また隣人を愛する。そうしてこそ健やかな愛に生きることが出来る。救われた者の喜びの人生が生まれるのです。
すべての者は、神さまの愛のみ手によって創造され、いまもその愛の御手の中に支えられています。