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待ち望んでいた

静まりの時 ルカ2・22~35〔よろこびのおとずれ〕
日付:2024年12月25日(水)

25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。

 マリアとヨセフは、幼子イエスを、モーセの律法に従って主に献げるためにエルサレムに行きました。
 彼らは、山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二匹、をいけにえとしてささげます。この献げ物は、マリアとヨセフが貧しい家庭であったことを現しています。
 神殿では祭司が迎えることが通例だと思いますが、彼らの貧しさを見て取ったのか、祭司は登場しません。かわりに「シメオンという人」が彼らを迎えました。シメオンは幼子イエスを腕に抱き、神をほめたたえて歌いました。29から32節の歌は、のちに「シメオンの賛歌」(ヌンク・ディミティス)と呼ばれるようになります。ヌンク・ディミティスとは、「主よ。今こそあなたは、しもべを去らせてくださいます」という意味のラテン語です。

 シメオンは、田舎からやって来た貧しい身なりの夫婦が、その腕に抱きかかえていた幼子を見て、それが、キリストであることを発見しました。どうしてそのようなことが出来たのか。

 「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた」。
 シメオンは正しい人であり、敬虔な人であり、そしてイスラエルが慰められるのを待ち望んでいる人であった。それはまた聖霊が彼の上におられたことであった。聖霊がその上におられる人というのは、すなわち正しい人であり、敬虔な人であり、待ち望む人である。

 正しいとは、神さまの関係の正しさに生きようとしている人。敬虔な人とは、神さまを愛している人。イスラエルの慰め。共に生きる人たちの幸せを待ち望んでいる人。そのような人にこそ、幼子の内にキリストを発見する特権が与えられるのです。


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