静まりの時 第二テモテ4・5~8〔栄光の主の審判〕
日付:2024年12月21日(土)
5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。
6 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。
5節と6節は段落で分かれていますので、そこで話題が変わっているように感じますが、共同訳2018では以下のようになっています。
5 しかしあなたは、何事にも身を慎み、苦しみに耐え、福音宣教者の働きをなし、自分の務めを全うしなさい。
6 私自身は、すでにいけにえとして献げられており、世を去るべき時が来ています。
テモテに向かっては、この先も一所懸命励んでほしい、しかし私の働きはもう終わりました、バトンタッチの時が来ました、と語っているような感じがします。
引き際をどのように迎えるのか。すべての働きにとって大切なことだと思います。伝道者にとってもどのように引き際を迎えるのかは、大切なことです。ある先生は、とても良い働きをした伝道者の中にも、この引き際で失敗したと言わざるを得ないケースがある、と語っておられました。もしかしたらとても良い働きをしてこられたからこそ、引き際が難しくなってしまった、のかもしれません。それは伝道者だけの課題ではなく、教会の課題であるようにも思います。ある先生は、拍手が鳴り終わらないうちにステージは降りなければならない、と言っておられました。伝道者も弱い者です。過去の栄光(というものがあるとすれば)にすがり続けたい誘惑にさらされています。
とすると、テモテに語るパウロのこの言葉は、とても大切な言葉のように思います。パウロは、ひたすら前だけを見ているのです。乱暴な言い方をするならば、私の奉仕は終わりました。お茶で言うならば出がらしです。今が潮時です。やるべきことはすべてやりました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。それだけなのです。あとのことはどうぞよろしくお願いします、と言った感じです。
鈴木崇巨先生の『牧師の仕事』によると、「転任」の項では、「転任までの期間は10年くらいが一つの目安」とあります。「引退」の項では、「引退もまた一つの重要な任務」「米国の合同メソジスト教会では62歳で引退することができ70歳までには必ず引退しなければならない」「引退するときには必ず最終任地を離れなければならない」などとあります。
これはその牧師自身のためでもありますが、なによりも教会のためです。そしてそれは後任の牧師のためでもあります。前任者の亡霊が漂うような教会ではやりづらくて仕方がない。後任の先生が気持ちよく、力強く伝道牧会ができるように、引退する牧師ができることは、立つ鳥跡を濁さず、で、そのためには、ひたすら自分に用意されている「義の栄冠」を見失わないことです。そのためにもこの世の栄冠はすべて色あせて見えることでなければならないのだと思います。