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義の審判者として

静まりの時 詩篇9・1~11(9・1~10)〔栄光の主の審判〕
日付:2024年12月20日(金)

4 あなたが 私の正しい訴えを聞かれるからです。
 義の審判者として王座に着いておられるからです。
(4)

新共同訳、共同訳2018では5節になります。

「5 あなたは御座に就き、正しく裁き わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。」(新共同訳)

「5 あなたが私のために裁きと訴えを守り 正しい裁き手として座に着かれたからです。」(共同訳2018)

 新改訳では「正しい訴え」「義の審判者」とあり、正しいという意味の言葉が2度使われていて、「私」と「審判者」がともに正しいと形容されているような感じがします。それに対して、新共同訳、共同訳2018ではいずれも「正しい」という言葉が、1度だけ出ていて、いずれも、神さまの正しさを現しているように思います。
 新改訳では、私の正しい訴えを、その正しさゆえに、神さまは取り上げてさばきをなしてくださるという感じがしますが、新共同訳、共同訳2018では、私の正しさはそれほど強調されていないように思います。
 もちろん、神さまのさばきを喜びとしているようですから、自らに義があるとの主張もなされているのかもしれません。

 義、すなわち正しい神を信じている。ということは、そこに必ず「裁き(審き)」がなされることを信じることでもあります。さばきが想定されていない義は、義ではありません。あるいはその義に力がない、というべきかもしれません。

 義人はいないのですから、私たちはみなこのさばきの対称です。本来ならばさばかれる者、そして罪びとであるがゆえに、そのさばきによって滅びる者でした。
 しかし神は、それをよしとされず、救おうとなさいました。御子イエス・キリストをこの地に遣わし、十字架と復活の御業をもってあがなって下さいました。御子を信じる者は一人として滅びることがありません。罪と死のなわめから解き放たれました。

 御子イエス・キリストを信じることは、簡単なようで難しいのかもしれません。しかし難しいようで、実は簡単なことなのです。へりくだって、御子を私の主として受け入れればよいのです。力ある者や、知恵のある者には確かに難しいかもしれません。しかし自らの貧しさや足りなさを知らされた者には、まさに福音です。クリスマスの奇跡は、すべての人のためになされました。


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