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その翼に癒やしがある

静まりの時 マラキ3・19~24(新改訳では4・1~6)〔栄光の主の審判〕
日付:2024年12月18日(水)

2 しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、
 義の太陽が昇る。
 その翼に癒やしがある。
 あなたがたは外に出て、
 牛舎の子牛のように跳ね回る。

 最終的な審判の日が来る、と聖書は語ります。今の世はこのままずっと続くというのではなく、いつかかならず終わりが来るというのです。その日は、審きの日です。「高ぶる者」「悪を行なう者」にとっては、滅びの日であり、「主の名を畏れる者」にとっては、希望の日、いやしの日、喜びの日です。悲しみ、絶望と、喜び、希望とが混在する日です。

 最終的な審判の日は、「義の太陽」が昇る日です。その太陽には翼があります。その翼には癒しがあります。
 義。正しい太陽が昇る。暗闇を照らす光であり、不正や罪を明るみに出す光です。そこには間違ったことが一つもない。裁かれる者は、いっさいの言い訳が許されない。言い訳の入る隙間がない。しかしここでは、主の名を畏れる者に対して為される神さまの報いなのですから、むしろ今まで不当に扱われてきた者が、この太陽によって、正しく評価される、という時です。
 その翼に癒しがある。翼はすべてのものをおおいます。翼によって守られている者は、そこに全き平安を見出します。疲れた体に休みが与えられ、傷ついた体が癒されます。新しい力をいただきます。
 牛舎の子牛のように跳ね回る。おそらくユダヤの人びとにとってはなじみの光景だったのだと思います。どんなに虐げの中に沈んでいても、必ず、あの子牛のように跳ね回るときがやってくる。

 この平安と喜びは「主の名を畏れる者」に用意されています。
 主の名を畏れる。それは高ぶらない、悪を行わないことである。

 悪とは何か。おそらく旧約聖書の時代には律法を守らないことだったのだと思います。しかし、律法をいくら守っても、心に平安が来ない者たちはどうすればよいのか。
 まさに義の太陽が昇ったのです。主イエスこそ、義の太陽です。その翼には癒しがあります。まことの神であるにも関わらず、まことの人となられました。私のそば近くにいて、十字架と復活において明らかにされた愛を傾けていてくださいます。
 私たちはこのお方のもとに、すべての荷を下ろします。高ぶらずに荷を下ろします。へりくだって御名を崇めます。


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