,

王たちはあなたの輝きに照らされて歩む

静まりの時 イザヤ60・1~3〔栄光の主の審判〕
日付:2024年12月17日(火)

1 「起きよ。輝け。
 まことに、あなたの光が来る。
 主の栄光があなたの上に輝く。
2 見よ、闇が地をおおっている。
 暗黒が諸国の民を。
 しかし、あなたの上には主が輝き、
 主の栄光があなたの上に現れる。
3 国々はあなたの光のうちを歩み、
 王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

 「あなたの光」は「主の栄光」のこと。
 私の光が、主の栄光である。主の栄光こそ、私の光である。私は何を光として歩んできただろうか。今何を光として歩んでいるだろうか。どのような光を求めているだろうか。主の栄光を求めているだろうか。

 主の栄光は、私の上に昇る。主がそのように語られている。私が善であろうと悪であろうと、主がそのようにお語り下さっている。主の約束は変わることがない。どんなに世界を暗闇が覆っても、私の上に主の栄光が輝く。
 主の栄光は、私のためだけのものではない。国々が、その光に照らされて歩む。その光に導かれて歩む。暗闇の中に確かに光る灯台のように、暗黒の海を航行する船舶を安全に導いていく。
 教会に生きる一人ひとりが主にあって生きること。それがこの地に生きる多くの人の光となる。

 灯台は、船舶を導く光であるけれども、灯台自らは陸に立っているので、もし船舶が自らのところまで来てしまったら座礁してしまう。船曵とたちは、灯台が自分たちを導く光であると同時に、自分たちが進むべき目当ては、灯台そのものにあるのではなく、港にあることを知っています。
 もし私が灯台のように主の栄光を輝かせ、暗闇に生きる人びとを導く光として用いていただけるとすれば、自分のところに船舶を導くのではなく、確かな港を指し示さなければならない。バプテスマのヨハネのように。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: