静まりの時 第一コリント4・1~5〔栄光の主の審判〕
日付:2024年12月16日(月)
1 人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。
2 その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。
この場合の「私たち」は、パウロをはじめ使徒たちのことです。では「人」とはだれであるのか。コリントの教会の信徒、キリスト教会すべての兄弟姉妹。あるいは世間一般のすべての人。使徒以外のすべての人。あるいは使徒をも含むすべての人類か。
いずれであってもよいのかもしれませんが、とにかく教会に仕えるということは、「神の奥義の管理者」であること。管理者に要求されることは、「忠実であること」です。そのことが教会において、あるいは世界において了解されていなければならない。
忠実とは、聞いたこと、伝えられたことを、そのまま伝えることです。自分で脚色したり、独創的な解釈を加えたりしてはいけません。手紙においてこのように語られなければならない背景には、忠実であることが難しい事態が起こっていた、忠実であることのできない人がいたということかもしれません。あるいは、パウロたちに、独創的な何かを求める人たちもいたのかもしれない。おんなじことの繰り返しだ、何度も聞いた話だ、などとささやかれ、さばかれることもあったのかもしれない。
3 しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。
さばく、ということがさまざまに行われる。しかしパウロにとっては、あなたがた、つまりコリントの教会の信徒にさばかれること、あるいは教会をでて、この世の法廷に持ち込む人もいたのかもしれませんが、しかしそのように人間にさばかれることなど、非常に小さなこと、取るに足りないこと、恐れることではない、とパウロは語りました。さらには、自分で自分をさばくことさえしない、と言います。
4 私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。
やましいことがあるけれども、自分で自分をさばかない、というのではなく、やましいことは少しもないけれども、自分で自分をさばかない。自分にはやましいことは少しもないからといって、それによって義と認められているわけではない、といいます。
義と認められているわけではない。驚くべき言葉です。私たちはイエスさまを信じて義と認められる、と信じていますし、事実そうです。しかしあえてここで、義と認められているわけではない、と語るのは、自分にはやましいことがないから義と認められているのではない、ということです。確かに義と認められているのですが、それは、一方的な神さまの恵みによるものであって、自分が認めることではありません。私たちは、依然罪びとなのですが、罪赦された罪びとであることを忘れてはならない。さばきは主のものです。
5 ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。
さばきについては、主にゆだねること。それがキリスト者の在り方です。信仰を持ったことで、自分が何か特別な者になったかのように、さばく、ということをするならば、それは何もわかっていない、ということを明らかにしていることなのです。
主は、闇に隠れたことも明るみに出されます。心の中のはかりごとも明らかにされます。人間は表面的なことしか知り得ません。だから、さばきたくなる、という誘惑から自由になりましょう。
最終的な審判の時。その時は「神からそれぞれの人に称賛が与えられる」のです。さばきの時は、称賛、おほめにあずかる、誉れを受ける時。さばきの時は、主にある者にとっては、喜びの時です。
ちなみに日本語の称賛にはこれとは別に「賞賛」の漢字があります。どちらかと言うとこの「賞賛」はものをもってほめること。それに対して「称賛」はことばをもってほめることと言えるでしょうしょうか。もともとは、賛美する、というような言葉だそうですが、このように翻訳しているところに、翻訳者の信仰があらわれているように思います。