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この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています

静まりの時 第一テサロニケ2・11~13〔みことばの光〕
日付:2024年12月13日(金)

13 こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。

使徒の働き17章11節に、

「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。」

という言葉かあります。推測すると、テサロニケにいる人たちは素直でなかった。以前の訳では「良い人たち」ではなかった。何が良くなかったのか。倫理道徳的な良い悪いで判断されているのではない。御言葉に対する態度。それが良いか悪いか。み言葉に対する良い態度とは何か。すなおに聞くことである。そう語っているように思います。
 そんなテサロニケにいる人たちでしたが、神さまは彼らを変えてくださいました。彼らは変わったのです。

 パウロたちが語った言葉を「人間のことば」としてではなく、「神のことば」として受け入れた。テサロニケの人びとはそのように変えられました。そのことをパウロは感謝しています。

 新約聖書で「聖書」と語られているとき、まだ新約聖書は存在していなかったのですから、それは旧約聖書を指しています。しかし生まれた教会の間で手紙が書かれるようになり、その中でいくつかは繰り返して読まれるようになり、できるだけたくさんの人びとに読まれるために、礼拝で読まれる機会が多くなります。そうして手紙が、聖書、となっていきました。主の再臨を待ち望む教会で、しかし主イエスさまの生き証人たちが亡くなっていくと、イエス・キリストの歩み、その言葉を後代に伝えなければならなくなりました。そうしていくつかの福音書が書かれるようになりました。それがまた聖書となりました。こうして新約聖書が生まれていきます。
 人間が語った言葉。それが神の言葉となる。あるいは神の言葉が、人間のくちびるを通して語られる。また神の言葉が、いわゆる「お筆先」のように書かれ、語られた、というのでは全くなく、信仰に歩む人間が、その知性、知識、経験、個性を通して、語り記す。それが神の言葉となる。これは考えてみれば、不思議なことです。しかしそれが聖書であり、聖書が神さまの言葉である、ということなのです。これは信仰がなければ成り立たないことだと思います。

 パウロたちが語った言葉、書き送られた手紙。もともと迫害者であったパウロの言葉を、果たして神の言葉として受け取れるだろうか。また手紙が書かれたのは、書かなければならなかった事情があったからですが、それは受け取る者にとっては、耳痛い言葉、であるはずです。反発を生むことが十二分に予測される言葉です。「旧約聖書」は確かに神の言葉だが、あのパウロが語っている言葉は、神の言葉なんかではない、と言う人も多くいたのではないか。
 しかしテサロニケの人たちは、「私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれた」のです。

 今日、礼拝で語られる言葉は神の言葉なのか。神の言葉として受け入れられているのか。確かに聖書は神の言葉だけれども、それを釈義し、解釈し、説明するなかで語られる牧師の言葉は、神の言葉として受け入れられるものなのだろうか。
 あるいは、礼拝で語られる牧師の言葉には、神の言葉も含まれているが、そうでないものも含まれている、とするのか。
 あるいは、礼拝で語られる牧師の言葉は、単なる人間の言葉なのだが、聞く会衆が信仰を持って聞くならば、そのときそれは、神の言葉、となるのか。そのように主観的な判断によって神の言葉となったり、ならなかったりするものなのか。

 パウロがここで語っているのは、パウロたちが語った言葉は、会衆がどう受け取ろうとも、「事実そのとおり神のことば」なのです。それをテサロニケの信徒たちは「事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれた」のです。それを、パウロたちは感謝しています。
 誤解を恐れずにいうとすれば、礼拝において講壇から語られる牧師の説教は、神の言葉、なのです。会衆がどう受け取ろうとも、それが神の言葉である。
 そのことが、本当に了解されているならば、これは、語る牧師にとって、大変恐ろしいことです。この恐ろしさを知っているか否か、は牧師の説教準備に反映されます。逆に、講壇から語られる牧師の言葉が、神の言葉である、ということをいいことに、自分のいわゆる話したいことを話してしまう、そうして会衆をコントロールしようとしているとすれば、この恐ろしさを知らないことであり、またそれは神さまに対する恐れ、あるいは信仰が問われなければならない事態なんだと思います。

「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」

 語る者、また聞く者ともどもに、講壇の言葉が、神の言葉として受け取られる群れにおいてこそ、神の言葉は、力強く働きます。


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