静まりの時 エレミヤ1・4~12〔みことばの光〕
日付:2024年12月11日(水)
5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から
あなたを知り、
あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、
国々への預言者と定めていた。」
神さまの選びの信実が、ここに明らかにされています。神さまの選びは、私たちの能力や業績、経験、成果に一切かかわりなくなされます。神さまに選ばれた、ということは、神さまの一方的な愛のみによるものなのです。
ですからこの選びはこの先も変化することがありません。何があっても、何がなかったとしても変化しないのです。
「まだ若い、と言うな。
わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、
わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。
8 彼らの顔を恐れるな。
わたしがあなたとともにいて、
あなたを救い出すからだ。
神さまの選びには、目的があります。それは神さまのみこころを行うということです。エレミヤの場合は、みことばを語ること、でした。
この「あなたを救い出すからだ」の「救い」とはいったい何か。キリスト教で救いというと、罪からの救いであるとか、永遠のいのちであるとかを思い浮かべますが、それとはちょっと違うように感じます。
みことばを語ったために迫害にあう。しかしどのような迫害にあっても神さまは「救い出してくださる」と理解することも可能だと思います。迫害や困難の中にある、という救われなければならない状態にあるときに、神さまはその状態から救い出してくださる、と。
あるいは、救いというのが状態であるとすれば、みことばを語るエレミヤに神さまはともにいてくださるので、神さまがともにいてくださる、ということ自体がすでに救いの中にある。
みことばを語る者とされた伝道者は、さまざまな訓練を受けてその奉仕に臨みます。いろいろな訓練や備えが必要ですが、欠かすことができないのは「救われている」という信仰的な確信だと思います。この確信がなければ、みことばを語ることはできません。みことばは、自分が救われるために語るものではなく、救われているからこそ語れるものです。
救いの喜びに満たされてみことばを語る伝道者は、常にその救いの喜びを味わっていることが伝道者として生きる上で最も大切なことなのです。
「見よ、わたしは、わたしのことばを
あなたの口に与えた。
10 見なさい。わたしは今日、
あなたを諸国の民と王国の上に任命する。
引き抜き、引き倒し、
滅ぼし、壊し、
建て、また植えるために。」
エレミヤが語るべき神さまのみことばとは、諸国の民や王国に向かって語られるものです。その内容は必ずしも耳障りの良いものではありません。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊す。そんなことばを語らなければならないのは簡単なことではありません。しかしそのようなことばこそ、また、建て、植える、ことに実を結んでいくのです。
「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」
そのみ言葉が実現されるのも、神さまご自身の御業である。見張っていると書かれているので、まるで傍観者のように眺めているような印象も受けてしまうのですが、その言葉の先に、わたしのことばを実現しよう、とあり、この「実現しよう」の主語は、神さまです。神さまはご自身のお語りになったことばを、ご自身の全能のお力によって成し遂げて下さいます。