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全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。

静まりの時 ヘブル10・19~25〔あなたの主が来られる〕
日付:2024年12月 3日( 火)

19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
21 また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、
22 心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。

 「神に近づこうではありませんか」。主イエスは十字架と復活の御業によって、私たちが神さまに近づく道を開いてくださいました。ですから私たちは全き信仰をもって真心から神さまに近づくことができます。

23 約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。

 「希望を告白し続けようではありませんか」。約束してくださったお方は真実な方です。私たちは不真実かもしれませんが、このお方の真実によって、私たちは希望を告白し続けることができます。希望というのは、神さまの真実によって生まれるものです。

24 また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

 「互いに注意を払おうではありませんか」。監視し合うということではありません。励まし合うということです。主に救われた目的は愛と善行に生きるためです。愛と善行に生きるのは、救われた者の喜びを確かにすることです。

25 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

 「ますます励もうではありませんか」。何に励むのか。共に集うということに励むのです。「ある人たちの習慣」。主への信仰に生き始めたのに、共に集うということを止めてしまう習慣、あるいは共に集う集いそのものを止めてしまう習慣。いったいどうしてそうなってしまったのか。なぜそのように考えることになったのか。
 そもそもなぜキリスト教会では、共に集まる、ということをするのか。一人で聖書を読んで学び、神さまを礼拝し、善に生きようとしていればそれでいいのではないか。
 それはキリスト教が、愛の宗教、だからだと思います。愛に生きる、ということは、一人では不可能です。また愛し易い人たちばかりの集団の中では、真実の愛が醸成されているとは言い難い。さまざまな違いのあるお互いが、それでも共に集まるところでこそ、愛が生まれ、愛が試され、愛が成長する。
 そもそもキリストがこの地に来て下さった、ということ自体に、私たちが共に集うということの意味がある。キリストが私のところに来て下さったので、私に愛が届けられたのならば、私も誰かのところに行くことは当然のことである。
 あるいは、私にキリスト教を知らせて下さった方がおられた。あるいは聖書を届けて下さった方がおられた。聖書そのものも自分が作った物でもなく、翻訳したものでもない。共同体の存在がなくては存在しなかったものです。


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