静まりの時 マタイ25・1~13〔目をさまして〕
日付:2024年11月27日( 水)
1 そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
4 賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。
「天の御国」。神さまのご支配の中に生きる、とはこのようなことである、と「十人の娘」のたとえが語られます。
信仰生活を愚かに歩むか、賢く歩むか。信仰生活の愚かさとは、「ともしびは持っていたが、油を持っていない」。逆に賢さとは「自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた」。
油とは何か。さまざまに解釈さてるところだと思いますが、何よりも「恵みの油」と理解すべきではないかと思います。神さまの恵み、十字架と復活の愛をしっかりと手に握りしめている。それによって、信仰生活のともしびをともし続ける。神さまの恵みによって生かされていることを忘れない。
5 花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。
賢い娘も愚かな娘も「みな眠くなり寝入って」しまった。どんなに恵みに生きていても、信仰生活には眠ってしまうときがやってくる。
6 ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
7 そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。
みな眠ってしまったときに、花婿到来の叫び声が聞こえます。その声にみな準備を始めました。しかし愚かな娘たちの手には余分の油がありません。
8 愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』
9 しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』
「自分の分」。恵みに生きる、というのは、誰かに代わりにやってもらうことができません。喜びの信仰生活は自分自身が生きなければならないのです。人生はそのように出来ています。誰かに代わりに生きていもらうことができないのです。恵みは自分がその手に持っていなければならない。
10 そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。
11 その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。
12 しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』
愛の神さまならば、融通を聞かせて下さってもよいようなものですが、信仰生活の喜びは、信仰がなければ味わうことができないのです。お腹が空いたけれども、今は時間がないので、だれかに、代わりに食事に行っておいてください、ということで、食事をしたことにはならないのです。自分が食べなければなりません。それと同じように、信仰は自らの決意の中に生まれることを、神さまはお望みになっておられる。そういう意味では、万人救済や聖餐式におけるオープンな陪餐はキリスト教会の語るところではないと言わざるを得ない。もちろん救いは神さまのものですから、私たち人間が簡単に決めてしまってはいけないのですが。
13 ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。
その日、その時を知らない。その「知らない」ということが、目を覚ましている信仰生活を生み出します。