静まりの時 第二テサロニケ3・6~15〔いのちのパン〕
日付:2024年11月22日( 金)
6 兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。
7 どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたの間で、私たちは怠惰に暮らすことはなく、
8 人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。
9 私たちに権利がなかったからではなく、あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示すためでした。
10 あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。
11 ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。
12 そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。
13 兄弟たち、あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい。
14 もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。
15 しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい。
「怠惰な歩み」とはいったいどのような歩みだったのか。「何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人」とは具体的にどのような人たちだったのか。
伝道者となって大切なことの一つに、自己管理があると思います。多くの職業のように、他者に時間の管理、業務の管理をしてもらうことが、伝道者になると圧倒的に少なくなります。自分で時間の管理をし、業務の管理をし、その成果を評価するということが必要となります。これができないと、どうしても怠惰になります。あるいは自分では一所懸命しているつもりでも、怠惰に見えてしまいます。誰彼から見て怠惰に見えるというのではなく、自分自身から見て、怠惰ではないか、と自己評価を下げてしまう。自己卑下してしまうということが起こってしまいます。そうなると、自己価値をいろいろなもの確かめようとしてしまう。教勢の数字や経済、忙しくして時間をやたらに埋めようとする、などなど。結果的に伝道者としての働きが行き詰まってしまいます。
神さまの前に、怠惰ではない歩みをしなければなりません。
しかしこれは伝道者だけに限ったことではない、とも思います。さまざまな職業にあっても、怠惰に生きる、ことが出来てしまいます。その本分を忘れて、おせっかいばかり焼いているような生き方になってしまう。「おせっかいばかり焼いている」とは、口語訳では「ただいたずらに動きまわっている」、新共同訳、共同訳2018では「余計なことをしている」。
当人はおせっかいとは思っていないのかもしれません。しかし自己価値を確かめるための行動は、相手のためではなく、自分のためですから、いたずらに動き回ることになり、結局おせっかいになってしまうのです。
パウロは、そういう生き方をする人に向かって、「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」「たゆまず良い働きをしなさい」と命じました。
また、そういう生き方をする人がまわりにいたならば、そういう人たちを「みな避けなさい」、「注意を払い、交際しないようにしなさい」と言いました。
そのようにいささか厳しい命令をする目的は、「その人が恥じ入るようになるため」であり、その人も「敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい」というのですから、悔い改めて、変えられることを期待しています。
「たゆまず良い働きをしなさい」。落胆せずに善に生きよ、と命じました。落胆することがあろうとも、ひたすら善に生きよ。
この「たゆまず」と訳されていることばは、他の個所では落胆しない、勇気を失わないと訳されています。
16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。
18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
(第二コリント4・16~18)
きょうも落胆することから守られ善に生きるために、目に見えないものに目を留めたいと思います。