私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです

静まりの時 エペソ2・1~10〔失われた者の救い〕
日付:2024年11月15日( 金)

1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 「生まれながら」の自分の姿が記されています。「不従順の子らの中に働いている霊」に「従う」ということ。不従順に従順である、という不思議な言葉です。
 善に生きようとしてなかなか難しいのに、悪の道にはたやすく従っていく。「この世の流れ」にしたがってしまう。「空中の権威を持つ支配者」に従ってしまう。不従順の道にはたやすく従順なのです。
 たとえば隣人を愛そうとしても憎しみのほうがたやすい。隣人の善を語ろうとしても悪を語るほうがたやすい。ほめよることよりもけなすことのほうがたやすい。まさに御怒り、神さまの怒りを受けるべき者でした。
 坂道に立っているようなものです。何もしなくても転がり落ちていく。何もしないからこそ転がり落ちてしまう。重力にあらがって生きようとしなければ、上昇することはもちろん、留まることもできない。

4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

 そのような御怒りを受けるべき状態から救い出すために御子イエス・キリストはこの地に来て下さいました。イエスさまによって救われる、ということは、「キリストとともに生きる」ことであり、「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせて」くださることです。
 イエスさまを信じて罪が赦された、というのですが、その中身は、キリストとともに生きることであり、天上に座らせていただくことである。罪が赦されたと喜んでいても、キリストとともに生きているだろうか、生きようとしているだろうか。また天上に座っていない。やがて死んだのちに永遠のいのちをいただくというのではなく、今この時、天上に座っているだろうか。あるいは国籍を天に持つ。そのような生き方が与えられているだろうか。

7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。

 救いには目的がある。その救いの目的は、自分が幸福になるということだけではなく、「この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すため」であるとパウロは語ります。救いは常に世界と連帯しています。キリスト教の救いは、個人主義ではないのです。

8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 救いは、一方的な神さまの恵みによることである、と念を押します。自らの救いにみじんも自分の行いが入らない。もし自分の行いが少しでも入り込むならば、人間は途端に誇り始める。不従順の霊に従順になってしまう。

10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

 救いの目的のもう一つは「良い行いをする」ことです。私たちは良い行いをするために救われました。救われたと言いつつも、良い行いをしていないならば、あるいはしようとしていないならば、それは救われているとは言えないのかもしれません。少なくとも救いの喜びは味わっていない。自動車として作られたのに一度も走っていない。テレビとして作られたのに一度も視聴されていない。そんな状態です。倉庫でホコリをかぶった状態であり、まもなく錆が浮き出て使い物にならないことになってしまいます。花婿のイエスさまが再臨されたとき、私の花嫁がどこかな、と園で生き生きと活動している娘を捜していたところ、ふと見ると倉庫の片隅でくず鉄になるのをまっている娘を発見した、などと言うことにならないでいたいと思います。
 良い行いに歩むように、その良い行いを(も)あらかじめ備えて下さった。

新共同訳では、

「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」

共同訳2018では

「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。」

 良い行いのための事前準備は整えられています。準備万端。あとは、その良い行いをして歩むだけです。それが救われた者の人生です。


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