静まりの時 ルカ19・1~10〔失われた者の救い〕
日付:2024年11月13日( 水)
1 それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
2 するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
3 彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
4 それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
通られるイエス、通り過ぎようとしておられるイエス。ここにまことの神の姿が記されています。神は人間に対して通り過ぎようとする姿をもって出会ってくださいます。
ザアカイは、イエスが通り過ぎようとされるので、「イエスを見ようとし」ます。
しかしザアカイは「背が低かったので」容易に見ることができません。群衆が彼を阻んでいました。
群衆とはいったい何か。ザアカイにとっていったいどのような存在であったのか。「取税人のかしらで、金持ちであった」ザアカイにとって群衆は支配し搾取する対象だったかもしれない。しかしその自分が支配していたと思っていた存在に、自分の行く手を阻まれる。
背が低かったことによって、そして群衆が阻んだおかげで、彼は「いちじく桑の木に登」りました。大人においては少なからず奇異な行動です。しかしそれがイエスさまとの出会いを生みました。
5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
下に立って、上を見上げる神。神さまは本来、上に立って下にいる者を見下ろす存在だと思います。しかしその神さまが見上げて下さっている。これをありがたいと思うか、もったいないことと思うか、恐縮するか。その人の心のありようによって反応はさまざまです。
6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
ザアカイは「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎」る道を選択しました。
神さまに出会うために、人間は「降りる」すなわち降る、へりくだらなければなりません。へりくだった者への褒美として出会ってくださるのではありません。聖書の神はいと小さくなられた神ですから、私たちも小さくならないと、出会うことができないのです。
7 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
小さくなられた神は、また罪びとの客となられる神でもあります。私たちの客となってくださる。神が私の客となってくださる。それは私が罪びとであるということが、前提、となっています。自らが罪びとではないとしているうちは神に出会うことができません。自らの罪を認めずに出会ったという神は、偶像の神であって、本当の神ではありません。
8 しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
9 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
「しかし、ザアカイは立ち上がり」。「しかし」とはその前の文章の反対をこれから語ろうとする言葉です。群衆が文句を言うにも関わらず、ザアカイは行動します。「私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します」。イエスさまが請求されたわけではありません。ザアカイは自発的にこのような行動に出ました。もしかしたらイエスさまはこのようなことをお求めになってはいなかったかもしれません。しかしこのザアカイの行動に現われているザアカイなりの新し生き方を、イエスさまは受け止めてくださいました。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」。
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」。
失われている、とはいったいどういう意味だろうか。ザアカイは失われた者であった、とイエスさまは言われました。ザアカイはどのように失われていたのか。
神を知らず、あるいは知ってはいてもそれを自分の罪と結びつけることがなく、神に信頼することがない、へりくだって神とともに歩もうとすることがない。神を見失っている。それは自分が失われていることである。
神さまから見て失われている。それはすなわち自分自身の人生が、自分の手からも失われている。自分のものとしているはずが、神から遠く離れているならば、それは失っていることである。
人の子、すなわちイエスさまは、その失われた者を捜して救うために来られた。私には救いなど必要がないという私たちに、あなたは失われている者であった。そのあなたを捜し求めてやって来た。そうして救うためにやって来た。そう主は言われました。
ザアカイが新しい生き方を選択したとき、イエスさまは、救いがやって来た、と言われました。受けるよりも与えるほうが幸いである、という生き方に変えられたザアカイに、救いがやって来た、と言われました。私たちの生き方は新しい生き方となっているだろうか。受けるよりも与える生き方となっているだろうか。それとも、相変わらず自分を中心にして生きてしまっているだろうか。