静まりの時 ルカ15・8~10〔失われた者の救い〕
日付:2024年11月12日( 火)
8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
なぜこの女性は、銀貨を捜すのか。
1ドラクマ銀貨は、一日の労働賃金であると説明されます。それをこの女性は10枚持っていた。10日分の労働賃金に値するものを持っていた。いつのまには、9枚になっていた。いくら数えても9枚しかない。1枚が行方不明になってしまった。あたらめて部屋の明かりをつけ、家具を移動したり、隙間に目を凝らしたりしながら捜した。そうすると普段見逃していたほこりも見つかったのでしょう。ほうきを出してきて掃除しながら、銀貨を隠しているかもしれないほこりをはきながら捜し続けた。つけた明かりに反射するものを捜し求めた。
10枚は微妙な数かもしれません。1枚だけの銀貨を失った、10枚のうちの1枚を失った、100枚のうちの1枚を失った。同じ1枚の銀貨であるのに、それぞれ1枚の価値は微妙に違いが生まれます。1万枚のうちの1枚ならばもはや捜すことをしない、あるいは捜したとしてもあまり熱心に捜さないかもしれない。
しかしおそらくこの例え話は、たとえ1万枚を持っていたとして、そのうちの1枚を失えば熱心に探すに違いない。それが当然のことであろう、と言うのだと思います。1枚の中の1枚であっても、10枚の中の1枚であっても、100枚の中の1枚であっても、1万枚の1枚であっても、この女性にとっては、1枚のドラクマ銀貨なのです。同じ価値なのだと思います。どんなに多数の中に埋もれていても、1枚の価値を見失わない。
この例え話は、取税人や罪びとたちが話しを聞こうとしてイエスさまのところにやって来たのを、パリサイ人たち、律法学者たちが文句を言ったことに対して語られたものです。この取税人や罪びとと言われる人たちも、大切な存在なのだ、ということを言わんとして語られた例え話です。
なぜこの女性は銀貨を捜すのか。それはそれが自分の大切なものだからです。この地に生きるすべての人は神さまにとって大切な一人ひとりなのです。捜さないはずがありません。神さまはいつも私たちを、すべての人を捜しておられるのだと思います。私という存在も、神さまは捜し求めてくださいました。
9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」
見つかったら何をするのか。一緒に喜ぶことをする。それが見つけた者の心です。一人の罪びとが悔い改めるならば、一緒に喜ぶ。神の御使いたちの前には喜びがある。天国での喜びがある。あるいはこの御使いを、教会に生きるすべての人と解釈して、教会のみんなとともに喜ぶ。教会はいま目に見える教会だけではなく、2千年の教会のすべてのキリスト者のまえに喜びが生まれている。一人の人の存在の重さを知ります。おそらく一人の人間の価値は、ここにおいて正しく知ることができるのだと思います。地上のことだけを見つめていては分からないのです。あるいは見誤ってしまうのです。
この喜びは宣教の原動力であり、またすべての人の生きる力の源泉だと思います。神さまが私を見出してくださった。神さまが私の存在を喜んでいてくださる。そして神さまのみ前に生きるすべての人が喜んでいてくださる。
「悔い改めるなら」。逆に悔い改めないならば、喜びが生まれることはない。
悔い改めとは、自らの犯した罪に対して、悪かった、と反省することでもありますが、それ以上のことです。もともとのことばは、方向変換、であると説明されます。いままで自分の方向を向いていた。これからは神さまの方向を向いて生きる。そういうことを悔い改めと言います。
単なる反省であれば、あいかわらず自分が中心である。しかし悔い改めは、自分中心から神さま中心となることである。それが自分の、そして共に主にあって生きる者の喜びを生む。
悔い改めは、一つの行動というよりも、生き方であり、人生への態度です。ですから礼拝では必ず悔い改めの祈りがささげられなければなりません。主よあわれんでください、と祈られなければならない。そうして神さまから赦しのことばを確かに聞く。神さまの赦しの言葉は、この悔い改めに生きる者に向かってのみ響くのです。もちろん神さまの赦しの言葉はすべての人に語られています。しかし悔い改めという人生への態度を確かにしている者だけに響くのです。
9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
最初教会にやって来た頃は、この「取税人」のようであったけれども、いつの間には立派な「パリサイ人」になってしまう人がいます。それは悔い改めを一つの行動と考えているからだと思います。キリスト者として生き続けるためにはこの取税人であり続けなければならない。そうでなければ義と認められることがないとこのイエスさまのたとえ話は語っているのだと思います。失われた銀貨が、見出された喜びに生き続けるためには、自分が失われた者であったということを忘れないことです。