受けるよりも与えるほうが幸いである

静まりの時 使徒20・31~38〔弱い者への招き〕
日付:2024年11月 8日( 金)

31 ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。

 「目を覚ましていなさい」。かつてゲツセマネの園において弟子たちがイエスさまから聞いた言葉がここでパウロによって語られています。信仰生活は、目を覚ましている生活です。目を覚ます。それは祈っているということです。いつも神さまに向かって祈りの心をもって生きる。そのためにはどうすればよいのか。パウロは「思い起こして」と言います。すでに語られた神さまのことばがある。それを思い起こす。私たちが礼拝において行っていることはこれです。

32 今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。

 「神とその恵みのみことば」に「ゆだねる」。愛することは、ゆだねることです。何にゆだねるのか。神さまにゆだねるのです。私たちは神さまのように愛することはできないし、神さまのように人を導くことはできません。神さまだけが一番上手に愛し導くことができます。ゆだねるということは、自分の手から離すことです。ゆるす、ということばと近いような気がします。ゆるせない、ひっかかりがある、こだわりがあると、ゆだねることがなかなかできません。神さまこそ全能者なのですから、ゆだねたいと思います。

33 私は、人の金銀や衣服を貪ったことはありません。
34 あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。
35 このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」

 この「受けるよりも与えるほうが幸いである」は、福音書には登場しない言葉です。しかしイエスさまからの言葉として広く伝えられていたようです。
 パウロは、この時エペソの長老に向かって語っているのですが、そのエペソ教会の世話にはならなかった、すべて自活してきた、ということを確認しています。なぜそのようなことをわざわざ書かなければならなかったのか。あなたがたの世話にはなっていない、と言う言葉は、エペソの長老たちにどのように響いたのか。
 決して嫌味や皮肉を言っているのではないと思います。「受けるよりも与えるほうが幸いである」という生き方を示したかったのだと思います。
 私たちの世界は、逆に、与えるよりも受けるほうが幸いである、という価値観を語ります。為政者たちの言葉にもそれは現われています。また自国第一主義の政治家に人気が集まります。国と国との関係も、いかに自国に利があるかでのせめぎあいです。宗教においても、自分が如何に得をするか、ということで成り立っているかのような場面にも出くわします。
 しかし真実の幸いとはなにか。聖書の語る幸いはなんであるのか。パウロは、私を見てください、受けるよりも与えるほうがどんなに幸いであるのかを知ってください、と語るのです。
 あなたたちの世話にはならなかったと、卑屈に嫌味、皮肉を言っているのではなく、私の人生はまことに幸いな人生であった、あなたがたもこのように生きてほしい。受けるよりも与えるほうが、どんなに幸いであるのかを知ってほしい、と語っているのだと思います。


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