静まりの時 第一テサロニケ5・12~18〔弱い者への招き〕
日付:2024年11月 7日( 木)
12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、
13 その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。
「兄弟たち」とありますが、男性の教会員だけが続くことばを聞けばいい、ということではありませんので、共同訳2018では「きょうだいたち」とひらがなでの表記にして、女性をも含んでいることを明らかにしようとしているのだと思います。
パウロの「お願い」とは、「あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たち」、すなわち牧師や長老、役員と言った立場の人を、「その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい」。
牧師や長老にも、欠けや足りなさはあるでしょう。とても尊敬できないということもあるでしょう。それはそれで牧師や長老が大いに反省し、またその働きのために研鑽しなければなりません。しかし、「指導」「訓戒」が効力を発するためには、その間に、尊敬、また平和がどうしても必要です。人間は説得によってはその心を変えることがありません。強権的な力によって、表面的に、また一時的に変わることもあるかもしれません。しかしそれは真実の変化を生み出しません。
牧師や長老がその教会の会衆を愛することは大前提ですが、おそらく教会が健やかな成長を見るためには、会衆がその教会の牧師や長老を如何に愛しているかは、カギだと思います。少なくとも、牧師や長老と、会衆の間に不協和音が鳴り響いているようでは、福音の前進は期待できません。逆にその間に愛があり平和があるならば、麗しい成長が期待されるのです。
14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。
「怠惰な者」。共同訳2018では「秩序を乱す者」。これを諭す、戒める。「小心な者」。気落ちしている者を励ます。「弱い者」。これはローマ14章からすると、こだわりの強い人のことですが、その世話をする、助ける。そうしてすべての人に「寛容」である、寛大である。
15 だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。
悪に対しては悪で返したくなります。しかし主にある者は、そうではない別の道を選択します。悪では返さないのです。お互いに、またすべての人に対して、いつも善を行う。何かを為すとすれば、それが相手に対して善であることを語り行う。
不平や不満、否定的なことを語りたくなる時があるかもしれません。しかし主にある者は、善を行い、また語ります。そのように務める、努力します。
16 いつも喜んでいなさい。
17 絶えず祈りなさい。
18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
いつも喜ぶこと。どんなときも喜ぶこと。喜べない現実の中に置かれたときも、喜びの感情がなくなってしまったかに思える時も、喜ぶことを選び取る。
絶えず祈る。祈るということは、ただ願いを語ることではありません。神さまに向かって呼吸をすることです。神さまの御心を吸い込み、私の心の中に渦巻くものを吐き出す。そうして神さまのいのちに生かされていく。
すべてのことにおいて感謝する。どんなことであっても、感謝を選び取る。
これが神さまが望んでおられることである。私の望みであるまえに、神さまの望みである。その神さまの望みに生きる。私の望みは後回しにして神さまの願っておられることを第一とする。
「キリスト・イエスにあって」。神さまがお望みになられることが、キリスト・イエスにあって、共同訳2018では「おいて」。
私たちは、ただ単純に神を信じるということをしているのではなく、三位一体の神を信じています。三位一体においてご自身を現された神を信じています。キリストにおいて現された神とは、愛の神であり義の神です。愛と義の神さまを信じている私たちは、この神さまの「望み」「願い」に生きようとする。生きたいと願うようになる。神さまを愛するようになる。神さまを愛することを、私の喜びとするようになる。そうして真実に自分を、そして隣人を愛する者としていただける。
愛の順序というか、愛の建物は、一階が神さまへの愛、二階が私への愛、三階が隣人への愛だと思います。一階がしっかりできていないと、二階も三階も不安定です。神さまの願いを第一にしていると、自分への健やかな愛、隣人への正しい愛に生きることができるのです。
自分の気持ちがどうであれ、主にある者は、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する道を選択します。