静まりの時 ローマ14・1~12〔弱い者への招き〕
日付:2024年11月 4日( 月)
1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
「信仰の弱い人」というと、聖書の言葉をしっかりと守ることができない、礼拝を後回しにしてしまう、ちょっと問題が起こると信仰が揺らいてしまう、という人のことを想像します。しかしここでパウロが言っている信仰の弱い人とは、それらとは少し違うようです。
2 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
何を食べるか食べないか。肉を食べるか食べないか。肉を食べない、すなわち野菜しか食べないとはどういうことか。当時、市場に流通していた肉は、偶像に献げられた物でした。宗教に厳格に生きようとした人たちは、偶像に献げられた肉は汚れているので、一切口にしないと考えたようです。これは旧約聖書の食物規定や、今日の他宗教の言う食物の規定とは少し違います。
先の戦争中、英語を使うことが敵性言語であったということで、使うことを避けようということがあったようです。サッカーは蹴球、バスケットボールは籠球などと漢字に当てはめていうことを推奨し、ある場面では監視したということでした。しかしこれは国が規則として発令したわけではない、ということを聞いたことがあります。忖度的なことから生まれてきた、ということでしょう。パウロがここで取り上げている食物の問題も少し似たようなことなのだと思います。
誰かが決めたわけではない、しかしそうすることが推奨される、ある場面では監視されてしまう。教会でもそういうことが起っていました。
偶像に献げられた物は一切口にしない。それは決して悪いことではないと思います。むしろ良心的には良いことなのではないか、と思います。しかし市場に流通する肉は、すべて偶像に献げられた物でしたし、またそのほうが価格的には安かったのだと思います。食べないでは生活が成り立たない人びとも多かったのです。食べる人たちは、食べないと宣言している人の前では肩身の狭い思いだったのだと思います。逆に、食べないということを貫いている人は、少し誇らしい気持ちを持っていたのでしょう。
食べないということを貫いている人。それは人間的に考えると「強い人」のように思えます。しかしパウロはこう語ります。「弱い人は野菜しか食べません」。偶像に献げられた物など一切口にしない、と言う人たちのことを、弱い人、と言うのです。
3 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
そこで、食べる人は、食べない人を見下してはいけないと言いました。見下していたのでしょうか。むしろ肩身の狭い思いをしていたのではないか。しかしパウロは鋭くその心の深いところを見抜いています。食べる人たちは食べない人のことを、やはり見下していたのです。あるいは見下すことになっていたのです。鯱張って肩が凝って仕方がない、もう少し余裕をもって生きよ、清濁併せ呑む、毒を食らわば皿までも、それが世間で生きるということなのだ、と心のどこかで、厳格に生きようとする人たちを見下し馬鹿にしていたのです。
食べない人も食べる人をさばいてはいけない。やはり食べないという生き方を貫いている人は、自分のその生き方を誇っていたことでしょう。食べる人を心の中で審いていたことでしょう。
パウロは、互いを見下したり審いたりしてはいけないと言いました。
4 他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。
他人のしもべをさばくあなたは何ものか。そう少し砕けて言うと、何さまのつもりや、という感じです。
兄弟姉妹は、他人のしもべである、すなわち神さまのしもべである。そのしもべが立つか倒れるかは、主人である神さまの手の中にあることだ。私たちが信じている神さまは、必ず立たせてくださるお方である。それができるお方、全能の神である。そうしんじてるならば、どうして同じしもべでしかない私が、なぜ主人づらをして、裁いたり指導したり、挙句の果ては支配しようとしたりするのか。
5 ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
6 特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
ことは食物のことだけではなく、日の問題にも当てはまります。日本では六曜を大切にする文化がありました。そんなに厳密ではありませんが、いまでも火葬場は友引には稼働していないというところも多いのではないでしょうか。大安は喜びごとに選ばれやすいですし。逆に仏滅は避けようとします。非を大切にするということとは少し違いますが、験を担ぐ(げんをかつぐ)ということもあります。これはパウロもちょっとよく似たことをしてるところがあります(使徒18・18)。
いずれも、自分の中で確信を持てば、それでよいとパウロはいいます。これは自分勝手という意味ではないとは思いますが、自分と他者との境界線をしっかりと持って、神さまの御前でOKならば、もはや他人が口出すべきではない、ということかもしれません。
神さまに感謝をする。それがあるならばそれで良いのではないか。
7 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
8 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
9 キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。
これは、自分のためではなく、神さまのために生きなければならない、と命令しているのではありません。イエスさまを信じたその時から、人間の現実は神さまのために生きるように招かれてしまっている、という事実が語られているのです。私たち一人ひとりの主人は、イエスさまなのです。
10 それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。
11 次のように書かれています。
「わたしは生きている──主のことば──。
すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、
すべての舌は、神に告白する。」
12 ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。
どのような形であれ、兄弟姉妹に対して、自分自身がその人の主人になったかのようにさばくならば、見下すならば、そのことについて、最終的な審判の時に神さまに対して申し開きをすることになる。パウロはそう言いました。しもべの責任は主人に問われるべきことですから。
神さまに申し開きをする。人に対してではありません。ただ神さまに対して申し開きをする。どんなに人間に対して申し開きができたとしても、神さまに対してできないことならば、その人生はむなしいものです。逆に、人間に対して申し開きが十分にできなかったとしても、神さまに対して申し開きができるならば、確かな人生を送ることができるのです。