静まりの時 ルカ1・26~38〔信仰の先達〕
日付:2024年11月 1日( 金)
26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
「その六か月目に」。ザカリヤのもとに御使いガブリエルがやってきて、妻エリサベツの懐妊を預言しました。のちにバプテスマのヨハネと呼ばれる子どもの誕生を告げたのです。その六か月目、今度は「ガリラヤのナザレという町の一人の処女」のところに御使いガブリエルがやってきました。
この女性は「ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけ」であり、名前を「マリア」と言いました。
28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
マリアへの御使いの第一声は「おめでとう」。これは原文では「喜びなさい」という言葉です。しかしこのあと御使いから告げられる言葉は、喜びどころか、戸惑い、恐怖を覚えるようなことでした。
御使いは「恵まれた方。主があなたとともにおられます」と続いて語ります。恵みとは、この場合、御子イエスさまの母となることだと思いますが、この文章に思いめぐらすと、「主がともにおられます」こと自体が恵みである、というように読んでも良いのではないか。
何か良いこと、有用なこと、グッドタイミングのこと、思いがけない幸いなこと。そういうことに出会った時に「恵まれた」と喜びます。しかしそういう恵みの材料によって生まれる恵みということだけでなく、ただ単純に「主がともにおられる」という圧倒的な事実による恵み。それは目には見えないことですが、どんなに喜びの材料が見つからなくても、存在し続ける信仰的事実「主があなたとともにおられます」に私たちはいついかなる時も喜ぶことができます。
30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
マリアは御使いから男の子の懐妊と出産を告げられました。これが結婚した女性であれば確かに喜びかもしれません。しかしこのときマリアはいいなずけのいる状態で、しかもそのいいなずけの子どもではない子を懐妊し出産するというのです。喜びの材料がないどころか、不安と恐怖の材料が目の前に出されたのです。恐ろしかったと思います。
そんなマリアさんに、御使いは、恐れることはない、あなたは神さまから恵みを受けたのだ、これは神さまの恵みなのだ、と告げました。さらに御使いは、不思議な、あるいは壮大な神さまのご計画を知らせます。
34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
37 神にとって不可能なことは何もありません。」
なお不安を語るマリアに、御使いは丁寧に答えます。そして「見なさい。あなたの親類のエリサベツ・・・」と、マリアが安心するであろう事実を告げました。
「あの人もあの年になって」。こういう言われ方はあまりされたくないかもしれませんが、マリアにとって励ましとなると御使いは考えたのでしょう。
マリアにとってこれが励ましとなったのか。確かに親戚のエリサベツおばさんの身に不思議なことが起ったことが知らされています。おそらく親戚中がその不思議に包まれていたことでしょう。しかしエリサベツの懐妊は、夫であるザカリヤとの間に生まれることであって、高齢出産の不安があるにしても、みな手放しで喜んだことでしょう。
しかしマリアの場合は、まだ結婚をしていません。にもかかわらず妊娠し出産をするのです。ヨセフはどういう風に思うだろう、どういう風に私を、そしてこの事態を取り扱うだろう。マリアの両親は、親戚はどんな風に受け止めるだろう。聖霊が臨んだので懐妊したのです、などということをいったい誰が信じてくれるだろう。
御使いは言います。「神にとって不可能なことは何もありません」。確かにそうなのです。しかしその不可能なことがない、何でもできる、ということが、いま未婚の私が懐妊するということを起こしている。常識を外している。人に説明できない事態を迎えている。いっそのこと、神さまも常識を外すことができない、神さまにもできないことがある、としていてくださればどんなに良かったか。
神さまが全能であるばかりに、世間に説明できないことの中に生きることになった。なんと迷惑なことでしょう。マリアにとっては、神さまが全能であっことにより、自分が十字架を負うことになった。そんな風にも想像します。
38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
マリアはこの御使いの言葉を受け入れました。マリアは自らのことを「主のはしため」と言いました。はしため、とは「端女」と書き、召使の女、女中、ということですが、原文では「女奴隷」です。いまもあるか分かりませんが、世界を宣教して回る福音船に「ドゥーロス」というのがありました。「ドゥーロス」とは奴隷という意味です。その女性形「ドゥーレー」(女奴隷)。
謙遜して自らを奴隷と表現したのではありません。本当に主に仕える者との位置づけを確かにしたのです。「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」。一般的に人間の人生はその個人の自己実現を目的とするのだと思います。しかしマリアのこの告白は、自分の人生の自己実現を捨て、神さまのおことば、神さまの御心が実現することを受け入れました。これは謙遜という言葉では表現しきれないものだと思います。全き明け渡し、自らを無にする、自らを透明にする、そんなマリアさんの祈りです。
この言葉を聞くと、御使いはようやくマリアから去っていきました。務めを果たした、という感じです。御使いは神さまのみ言葉を告げる存在ですから、告げてそれで役目は果たしたはずです。しかしこの時、マリアさんの返事を聞いて、自らの役割の完了としました。御使いガブリエルは、自らの役割をそうとらえていたのだと思います。
37 神にとって不可能なことは何もありません。
神さまの全能を信じることと、私に与えられた十字架を負うこととはセットなのだと思います。マリアさんにとって、全能の神を信じる、ということは、自らの身に起こった不思議、不可能を受け入れることである、とともに、人生そのものを神さまにお委ねする、これから起こるであろう不思議、不可能も神さまの全能が何とかしてくださると信じることでもあったのだと思います。