しかし、私たちの国籍は天にあります

静まりの時 ピリピ3・17~21〔信仰の先達〕
日付:2024年10月31日( 木)

17 兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

 パウロは、自分が如何に立派であるか、立派な信仰生活を送っているか、を誇っているのではありません。自分はキリストとともに十字架につけられた、もはや私が生きているのではない、キリストが私のうちに生きておられる(ガラテヤ2・19,20)。そのような私に倣ってほしい。周りを見れば、そのように歩んでいる人たちがいる。そのような人たちに目を止めてほしい。
 信仰生活をどのように歩むのか。私たちには「手本」が与えられているのです。二千年のキリスト教会の中に現れた先輩のキリスト者を手本とすることができる。今も世界に、そして教会に生きている兄弟姉妹たちがいる。そこに手本がある、というのです。

18 というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
19 その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。

 しかしすべてが手本となるのか、といえばどうもそうでもないようです。教会の中には「キリストの十字架の敵として」歩んでいる人もいるといいます。この「多くの人」とは教会の外の人のことではありません。洗礼を受けて教会生活を送っている人のことです。
 イエスさまの十字架と復活を信じたと告白し洗礼を受けた。しかしその信仰の歩みは、十字架を敵として歩んでしまっている。そういうキリスト者がいたというのです。「その人たちの最後は滅び」であると、大そう厳しいことばが語られています。
 その最後が滅びとなってしまうような十字架を敵として歩んでしまう歩むとはいったいどのような歩みなのか。「彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです」。
 欲望が神となっている。天と地を造られたまことの神、十字架と復活においてご自身の愛を明らかにしてくださった神を教会は信じています。しかしそのようなまことの神ではないものを神としている。その別の神とは「欲望」のことである。
 欲望というといろいろと想像が走りますが、ここでは「恥ずべきものを栄光」としていること、「地上のことだけを考える者」のことです。恥ずべきものとはいったいなんであるのか。地上のこととは具体的にはいったい何を指しているのか。

20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

 地上のこと、恥ずべきことが何であるのかは十分には分からないのですが、それが十字架に敵対することであることは想像できます。
 欲望を神としない。本当の神を神とする。それは十字架に敵対しない、すなわち十字架の味方である、十字架を背負って生きる、十字架の道を選択する、そういう生き方のことである。
 十字架の道を選択する生き方は、私たちの国籍が天にあることを知り、その天からキリストが救い主として来られることを待ち望んでいることから生まれます。イエスさまが再び来られるその時、「私たちのからだ」を「ご自分の栄光に輝くからだ」と同じ姿に変えてくださる。そのことを信じている。その信仰の喜びが、十字架の道を選択させます。

 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力をお持ちである。そのことを信じているならば、その圧倒的な力で「私」が変えられる、ということを信じているだろうか。
 イエスさまを信じるという信仰生活は、自分が変えられる、ということを生み出します。もしそうでないとするならば、それは確かに十字架と復活を信じたかもしれませんが、いまだ十字架を敵として歩んでいることなのです。

 国籍が天にある、とパウロは語りました。主にある者はもはやこの地上のものではない。天国人である、というのです。他国からやって来た人が日本で暮らし始め、やがて国籍をとり帰化したという道のりには、日本の言葉を学び、日本の文化を理解します。どことはなく変えられていきます。その人が故郷に帰っても、どこか違うものを引きずっています。もはや故郷の人とは別の人となっています。よく日本にやって来た宣教師が本国に戻っても、故郷の人とはどこか違う人となっているのに気づくと言っておられました。それと同じように、主にある者は天国人であるのですから、この地上にあっても、その語る言葉、ふるまい、態度など、どこか違うものをもつはずです。それが一番鮮明に表れるのは、十字架の道を選択する、ということにおいてだと思います。欲望を神とするのではなく、むしろ欲望を敵として、十字架の道を選択するのです。
 福音は人間にまことの自由を与えると思います。その自由とは、自分だけが自由であればよいというものではありません。本当の自由とは自分の自由が抑制されるところに生まれます。数日前の新聞に、元国連難民高等弁務官の緒方貞子さんの言葉が掲載されていました。「日本人だけが安全で豊かなことって、ありえないんですから。」。これを私たちの小さな生活に当てはめるとすれば、私だけが幸福である、自由である、ということはありえないのです。誰かの不自由、誰かの不幸の上になりたっている私の自由、私の幸福であるならば、それは本当の自由、本当の幸福ではありません。自分の欲望を抑制し、十字架の道を選択するところにこそ、ほんとうの自由、本当の幸福が生まれるのです。


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