こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります

静まりの時 第一テサロニケ4・13~18〔信仰の先達〕
日付:2024年10月30日( 水)

13 眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。

 「眠っている人たち」。死んだ人たちのことをパウロはこのように呼びました。イエスさまも死んだラザロを、死んだのではない眠っているのだ、と言われました(ヨハネ11・11)。仮死状態であるとか昏睡状態であるということではありません。真に死んだのです。しかし主にある者の死は、死であって死ではない。眠っているのだ。再び目覚める時がやって来る、と聖書は語ります。
 「望みのない他の人々のように」。イエスさまを信じるということは、望みを持つことです。その望みとは、死が終わりではない、という望みです。イエスさまを信じない、ということは、この望みを持たないということです。どんなに聖書を読み、その教えに共感し、イエスさまの立派さを讃えたとしても、この望みを持たないならば、イエスさまを信じたとは言えない。

14 イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。

 イエスさまを信じる、キリスト教信仰を持つということは、イエスさまの復活を信じることです。もちろん十字架の死が私の罪のためであったことを信じることも欠かすことができません。しかしそれだけではありません。イエスさまが死から復活されたことを信じる。私のためによみがえられたことを信じる。それがイエスさまを信じるということです。
 イエスさまの復活を信じるなら、それと同じように、神さまは主にあって眠った者、すなわち死んだ者を、イエスさまとともに連れて来られるはずである。イエスさまを信じているというならば、それは当然のことである。
 私たちの死も、それは終わりではなくなりました。その向こうに復活があるのです。私たちも主と同じように復活にあずかるのです。
 妻とともに孫たちのところに行くと、妻が大好きな孫たちは大喜びです。するとおもむろに、「おじいちゃん、なんで来たの?」と私には冷たいとも取れる言葉が浴びせかけられます。おばあちゃんにはおじいちゃんがもれなくついて来ます。それと同じように、復活のイエスさまに私たちはもれなくついて来るのです。ある先生は、ずるずるとついて来ると説教集に書いておられました。濡れ手に粟、ではありませんが、イエスさまに引っ付いて復活するのです。

15 私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。

 「主のことばによって」。聖書はすべて主のことばですが、ことさらこのように書かれているのは、この手紙が書かれたときには、これが聖書となることが意識されていなかったということかもしれません。主のことばとして伝えられていたことが、さまざまに語られていた時代があったということかもしれません。これに続く言葉がとても大切なことであるということでしょう。
 今生きている、生かされている私たちが、主の来臨(再臨)の時まで生き残っているならば、そのとき、先に死んだ人たちよりも私たちが先になることはない。

16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 まず「キリストにある死者がよみがえる」。それから、生き残っている私たちが、その復活した人たちと一緒に雲に包まれて引き上げられる。そして宮中で主とお出会いする。「こうして、私たちは、いつまでも主とともにいる」ことになる。
 ということは、私たちが生きている間に再臨が来たならば、死者の復活を目撃することになります。しかも死者の復活は人の目に付かないところでひっそりと行われるのではなく、誰の目にも明らかに行われる。壮大なことが起こるのです。
 また反対に、私たちが死んだ者ととなったならば、その時生きている人たちに先んじて復活させていただく。数えきれない人たちが雲に包まれ空中に引き上げられている。その一人として自分も引き上げられている。懐かしい人たちとともに引き上げられている。これもまた壮大なことです。

 こうしてやがての時、私たちは「いつまでも主とともにいる」のです。

18 ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。

 教会における励ましとはいったいなんであるのか。信仰をもって私が励まされるということはいったいどういうことであるのか。教会の暖かさやその交わりの豊かさ、さまざまな行事の楽しさに励まされる、ということも大切でしょう。しかしそれらは、教会でなくても得ることができることです。何はさておいても教会ならではの励まし。再臨信仰における励ましこそ、教会の専売特許なのです。これ以外のものは、一時的な励ましはもたらすかもしれない、しかし真実な励ましをもたらすことにならない。真実に互いを励ますことにならない。
 再臨信仰を、具体的にそれがどのようなタイムスケジュールでなされるか、については聖書はさまざまな語り方をしています。よってキリスト教会にはいくつもの考え方が生まれました。しかし大切なことは、再臨への信仰です。
 私たちは使徒信条において「かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」「身体のよみがえり」を信ず、と告白しています。


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