そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます

静まりの時 マタイ13・36~43〔刈入れの時〕
日付:2024年10月25日(金)

36 それから、イエスは群衆を解散させて家に入られた。すると弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。

 この「畑の読麦のたとえ」とは、13章24~30節のことです。

24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
25 ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。
26 麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。
27 それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』
28 主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』
29 しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。
30 だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」

 神さまによって造られた「御国の子ら」がいます。しかし敵、すなわち悪魔が来て「悪い者の子ら」を置いて行きました。しもべは今すぐにでも悪い者の子らを取り除きましょうか、と言いますが、主人はそのままにしておきなさい、と答えました。収穫の時にすべてが明らかになり、帳尻が合わされると言われました。
 どうして今すぐに取り除いてはいけないのか。イエスさまは言われました。「毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない」。しもべたちには、毒麦に見えたとしても本当は良い麦かもしれない。良い麦か毒麦かは、しもべたちには判断できない、と言われました。
 この例えの説明が今朝の個所です。

37 イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。
38 畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。
39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。
40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。
41 人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、
42 火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

 「収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです」。最終的な審判の時が必ずやって来る。その時にすべてを委ねる。それが主にある者の生き方である、と言われました。
 私たちの周りには、矛盾、罪、理不尽なこと、理解できないことが数多くあります。請求に判断を下し、裁いてしまうとすれば、それは主にある者の生き方ではない、ということでしょうか。もし一切を裁かない、とすれば、この世界の正義はどうなるのか。
 しかしこう考えるのには、毒麦、すなわち悪い者の子らは、自分の周りにいる人たちのことであって、自分ではない、とどこか思っているふしがあります。自分は毒麦ではないだろうか。もし自分が毒麦であれば、即座に裁かれて、それを甘んじて受け入れるのだろうか。いくらでも言い訳をしたいのではないか。どんなに悪に見えても、それはあなたから見てのことであって、良いところもあるのだ、と言いたいのではないか。
 御国の子ら、と、悪い者の子ら。いったいこの違いを私たちは判別することができるのだろうか。「御国の子ら」と見えても、いつのまにか「悪い者の子ら」になってしまうことがあるのではないか。「悪い者の子ら」とレッテルが貼られるような人も、「御国の子ら」になる可能性を秘めているのではないか。だれがいったい判断することができるのか。神さま以外にはないではないか。

 しかし果たして、「御国の子ら」「悪い者の子ら」とはいうけれども、そんな分け方ができるだろうか。私の中に「御国の子ら」の部分があると思えば、逆に「悪い者の子ら」を発見することもあります。イエスさまは山上の説教で、悪い部分があればそれを切り離してしまえ、と厳しく言われましたが、そんなことをしたならば、生きていくことのできる者がいるだろうか。

43 そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

 イエスさまはここで「御国の子らは」「彼らの父の御国で太陽のように輝きます」とは言われず、「正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」と言われました。
 「正しい者たち」。すなわち義人です。義人はいないというものの、先日も書きましたが、イエスさまご自身が一つのたとえの中で義人と認められる人を紹介されました。

10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
(ルカ18・10~14)

 義と認められた人、すなわち義人、正しい人とは、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて「神さま、罪びとの私をあわれんでください」と祈る人のことです。
 私たちは、自らの中に、御国の子らの部分と、悪い者の子らの部分を持っているのです。しかしその上で、自らの罪を深く顧み、主に憐れみを乞う者を、聖書は義人というのです。ここで罪とは、何か悪いことをした、ということであれば、それを悔い改める、ということで、完了したことになります。しかし、そもそも罪とは、的外れ、であり、自己中心ことであり、神さまをいつも後回しにしてしまうことですから、それは、何か悪いことをしたということを越えて、自分自身のあり方そのもののことです。私たちは罪を犯した罪びとであると同時に、実は罪そのものなのです。カラスの色が黒いように、象の鼻が長いように、キリンの首が長いように、人間は罪なのです。だから悔い改める、ということは、支払いきることで完了する借金のようなものを越えています。息をしなければ生きられないように、悔い改めは生き方の姿勢のようなものではないかと思います。ですから歴史の教会は礼拝の中で必ず、キリエ・エレイソン、主よ、あわれんでください、と祈るのです。


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