ユダの家の中の逃れの者、残された者は、 下に根を張り、上に実を結ぶ

静まりの時 イザヤ37・21~31〔刈入れの時〕
日付:2024年10月24日(木)

21 アモツの子イザヤは、ヒゼキヤのところに人を送って言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたはアッシリアの王センナケリブについて、わたしに祈った。』
22 主が彼について語られたことばは、このとおりである。

 14~20節にヒゼキヤ王が主に祈った祈りが記されています。その内容はアッシリアの支配からの解放でした。「 私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知るでしょう」(20)。自分たちが助かりたい、というだけでなく、イスラエルの神だけが主であることを地のすべての国が知るために、と祈りました。
 その答えが、今預言者イザヤによってヒゼキヤ王に伝えられます。主が彼、すなわちアッシリアの王について語られたことばはこのとおりである、と。

 『処女である娘シオンは
 おまえを蔑み、おまえを嘲る。
 娘エルサレムは、
 おまえのうしろで頭を振る。
23 おまえはだれをそしり、だれをののしったのか。
 だれに向かって声をあげ、
 高慢な目を上げたのか。
 イスラエルの聖なる者に対してだ。
24 おまえはしもべたちを通して、
 主をそしって言った。
 「多くの戦車を率いて、
 私は山々の頂に、
 レバノンの奥深くに上って行った。
 そのそびえる杉の木と
 美しいもみの木を切り倒し、
 その果ての高地、
 木の茂った園にまで入って行った。
25 私は井戸を掘って水を飲み、
 足の裏で
 エジプトのすべての川を干上がらせた」と。
26 おまえは聞かなかったのか。
 遠い昔に、わたしがそれをなし、
 大昔に、わたしがそれを計画し、
 今、それを果たしたことを。
 それで、おまえは城壁のある町々を荒らして
 廃墟の石くれの山としたのだ。
27 その住民は力失せ、打ちのめされて恥を見て、
 野の草や青菜、
 育つ前に干からびる屋根の草のようになった。
28 おまえが座るのも、出て行くのも、
 おまえが入るのも、わたしはよく知っている。
 わたしに向かっていきり立つのも。
29 おまえがわたしに向かっていきり立ち、
 おまえの安逸がわたしの耳に届いたので、
 わたしはおまえの鼻に鉤輪を、
 口にくつわをはめ、
 おまえを、もと来た道に引き戻す。』

 ヒゼキヤ王に伝えられた主のことばは、アッシリアに対する裁きの言葉でした。一方ヒゼキヤ王に対しては次のように語られました。

30 あなたへのしるしは、こうである。
 『今年は、落ち穂から生えたものを食べ、
 二年目は、それから生えたものを食べ、
 三年目は、種を蒔いて刈り入れ、
 ぶどう畑を作ってその実を食べる。
31 ユダの家の中の逃れの者、残された者は、
 下に根を張り、上に実を結ぶ。

 神さまは、イスラエルに対して祝福の言葉を語られました。年を追うごとに回復していく、繁栄してくと主は語られたのです。

 7月の下旬ごろウォーキングの途中で青い豆があぜ道に落ちているのを見つけました。いったいこれはなんだろうか、と思わず拾って帰ってきました。蒔いたところ芽を出しました。最初は虫にかじられていたのですが、徐々に成長し実を結びました。先週だったか、収穫しゆでて食べました。拾った豆が青い色だったので、何か不思議なものができるのではないか、と想像していたのですが、ただの大豆でした。青い色は成長するために加工されていたのですね。おそらく農家の方はよく知っていることなのだと思います。
 現実に目を向けることは確かに大切なことです。しかし現実に目を向けることと、否定的に考えることとは別のことだと思います。主にあるものは、いつも希望を持って生きるようにと招かれているのだと思います。
 未来という言葉があります。未だ来たらん、という意味でしょうか。それに対して将来という言葉があります。将に来たらん、という意味だと思います。たとえば、ぼくは将来サッカー選手になりたい、とは言いますが、ぼくは未来サッカー選手になりたい、とは言いません。将来とは、希望と意志を含む言葉なのだと思います。明日のことは誰にも分かりません。しかし主にある者は、明日に向かって希望を意志をもって前進します。主にある者にとっては、未来は将来なのです。今年は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、それから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、そしてぶどう畑を作ってその実を食べる。そうして下に根を張り、上に実を結ぶ。主がそのようにしてくださる、と信じていつも明日に向かって歩みます。

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