静まりの時 第一ヨハネ5・10~13〔回心〕
日付:2024年10月17日(木)
10 神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。
11 その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。
12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
神さまは目に見えません。しかし確かに存在しておられる。ただ存在しておられるだけではなく、私たち人間を愛していてくださる。その愛の証拠が、主イエスさまです。
神さまの被造物である自然を見ると、そこに神さまに御手を発見します。そのような「証し」も確かに素晴らしいものです。しかし御子イエスさまこそ、神さまがなさってくださった確かな証しです。
私は神さまを信じている、ということがどのようにして明らかにされるのか、何をもってその証拠とするのか。それは、御子イエスさまを信じる、ということにおいて明らかにされ、御子イエスさまを信じている、ということが神さまを信じていることの証拠、証しなのです。逆にいうと、神さまを信じている、と言いながら、御子イエスさまを信じていない、というならば、それは神さまを信じていることにならない、あるいはその信じているという神は、本当の神とは言いがたい。
御子イエスさまは、この地にまことの人として来られ、罪びとと同じ洗礼を受け、十字架によってそのいのちをささげられました。その三日目に復活され、40日間弟子たちにお会いなさり、昇天されました。その10日後に聖霊がこの地に下されました。聖霊は御子イエスさまを世界に宣べ伝えるために、今も働いておられます。こうして御霊と水と血の三つの証しするものによって御子イエスさまを信じるようになった人は、永遠のいのちを持っています。
御子イエスさまの内にこそ、永遠のいのちがあります。その御子を持っている(新共同訳では「御子と結ばれている」)ならば、それはすなわち永遠のいのちを持っていることなのです。
永遠のいのちを持っていること自体が、証しである。目には見えない神さまが存在しておられ、その神さまが愛の神さまであることを証ししている。
永遠のいのちとはいったいなんであるのか。死後のいのちのことをいっているのか。この肉体のいのちはやがて死によってなくなってしまう。肉体に宿っているいのちは永遠ではない。しかし魂は永遠である、ということを言っているのか。そういう霊魂不滅、ということであるならば、さまざまな宗教も語っている。一体聖書の語る永遠のいのちとは一体なんであるのか。イエスさまが十字架上で成し遂げて下さった贖いの御業、そしてその三日目に復活されたことによって打ち滅ぼされた死。そうして実現した天国への道、永遠のいのち。その信仰によって生きる私たち。今のこの私。いったいどのような変化がそこに起こったのか。
この永遠という言葉を、時間的な永遠、つまり無限の時間を現わしていると考えると共に、量的な永遠、質的な永遠と考えてみてはどうか。
いのちが尽きる、というとき、時間的ないのちが尽きると考えるだけではなく、生き生きと生きるそのいのちがなくなってしまう。生きる力を失ってしまう。確かに肉体は生きているかもしれないが、夢も希望もなくただ息をしているだけになっている。この先には絶望しかない。そういう罪がもたらす滅びの中に、つまり限界の中にしか生きることのできなかった私たちに、御子イエスさまによって開かれた永遠のいのち。それは尽きないいのちでもあります。
愛に生きようとして、その愛に応えられると、力がわいていきます。そうしてますます愛に生きようとします。しかしその逆であれば、がっかりして力を失ってしまいます。使命、という言葉がありますが、命を使う、と書きます。善に生きよう、愛に生きようとすると、命を失うのです。しかしそこで永遠のいのちをいただいた、というのは、汲めども尽きない泉のように、使ってもなくならないいのちをいただいたのです。
愛に生きようとして、命を使い果たしても、イエスさまが内にいてくださるならば、尽きることがない。それがイエスさまとともに生きる者の永遠のいのちである。もしイエスさまを信じ、そうして愛に生きようとして疲れ果ててしまうならば、それはもしかしたら、うちにいてくださるイエスさまとともに愛そう、生きようとしているのではなく、ただがむしゃらに自分の力のみで愛そう、生きようとしているのではないか。
もし愛に生きる、喜びと感謝をもって生きることであるならば、それ自体が、イエスさまが内にいてくださる、永遠のいのちが内にあることの証しなのだ。そんな意味もあるのではないか、と思います。
イエスさまとお出会いし、回心したキリスト者は、この永遠のいのちに、今この時を生きる者、尽きることのないいのちに生きるように、愛に生きる、喜びと感謝に生きる者とされたのです。