二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか

静まりの時 マタイ21・28~32〔回心〕
日付:2024年10月16日(水)

28 ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
29 兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。
30 その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。

 口語訳聖書で読んでみましょう。

28 あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
29 すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
30 また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
(口語訳 マタイ21・28~30)

 兄と弟が逆になっています。写本にはさらにいろいろなバリエーションがあるようです。細かな説明は省きますが、この例え話で大切なのは新改訳では「思い直し」、口語訳では「あとから心を変えて」という言葉です。つまり行くと言ったけれども行かなかった、行かないと言ったけれども行った、というように「言葉よりも行動が大切だ」とか、逆に「言行一致」が大切だなどということが、この例え話の焦点ではなく、「心を変える」ということが焦点なのです。

 ああは言ったけれども、後から考えると、やはり相手の言ったことが正しかったな、ということはよくあることです。そんなときに、心を変えることができるか。変にプライドが高かったり、自分が正しいということにすがりつかなければ生きられないタイプの人は、なかなか心を変える、ということが難しいものです。自分の中の「義」を捨てなければなりません。
 ここで「あなたがたはどう思うか」と問われている「あなたがた」とは、祭司長たちや民の長老たちです(23節)。彼らはイエスさまからいろいろとお話しを聞きましたが、心を変えることをしませんでした。とうとうイエスさまを十字架に引き渡しました(27・1)。
 それに対して「取税人や遊女たち」は、いつでも心を変えることができました。自分たちの中に、自分たちが守らなければならない「義」がなかったからです。いえあったかもしれない。しかしそれにしがみつくことをしなかった。
 キリストを信じる、ということは、このように自分の中にある吹けば飛ぶような「義」を捨てることです。神さまが為してくださった義、十字架と復活の御業によって完成してくださった義に生きることです。

31 二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。
32 なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。

 ここでイエスさまは問われました。「どちらが父の願ったとおりにしたでしょうか」。父の願い。父なる神さまの願いに生きたか。
 取税人たちや遊女たちこそ、父の願いに生きたのです。だから彼らこそ、「先に神の国に入ります」。
 では父の願いとは何か。「取税人たちや遊女たちは信じたからです」。彼らは信じたのです。決して褒められたような生き方をしていたわけではありません。戒律を守ることもできなかったでしょう。しかしいつでも心を変えることができた。そうしてどんなに自分が貧しく出来損ないであっても、そのままで神さまを信じた。その軽やかな生き方に、天国の門は開くのです。

 キリスト教信仰に生きることとは、この父の願いに生きることです。イエスさまを信じたらどんな良いことがあるか、という「私の願い」ではなく、無条件に「父の願い」に生きようとすること。それがここでイエスさまが問われたキリストことであり、キリスト教信仰なのです。そしてそこにこそ、全き平安の道があるのだと思います。


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