わたしは羊たちの門です

静まりの時 ヨハネ10・1~10〔招きのことば〕
日付:2024年10月12日(土)

1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。
3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
5 しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」
6 イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。

 当時、一人の羊飼いが羊の囲いの中にいる羊たちをすべて飼っていたのではないそうです。幾人もの羊飼いが、それぞれ羊の群れを飼っていた。幾人もの羊飼いがいるのです。囲いの中にはいくつもの羊の群れがいっしょに飼われています。門番は、羊飼いをよく知っていますから、羊飼いが来れば門を開きます。知らない者が来ても決して門を開きません。
 羊も自分たちを飼っている羊飼いをよく知っています。その羊飼いがやってきて門が開かれると、羊たちは喜んでその声に聞き従います。それまで眠っていた、あるいは草を食んでいた、あるいはボーとしていたかもしれません。しかし羊飼いの声が聞こえると、それに従っていく。羊飼いは羊一匹一匹の名前を呼びます。羊はその声をよく知っています。喜んでその声に従っていきます。
 イエスさまのこの例え話は、9章40節の聖句から推測するとパリサイ人たちであったようです。パリサイ人たちは、この例え話を聞いてその意味がさっぱり分かりませんでした。羊たちはユダヤ人たちのことです。パリサイ人たちは、人びとの信仰生活をリードし整える人たちでしたから、羊飼いのことです。パリサイ人たちは、良い牧者であるのか、それとも盗人であり強盗なのか。
 良い羊飼い、本当の羊飼いであれば、門番はその羊飼いをよく知っているので、門を開きます。また羊たちもその羊飼いの声をよく知っているので、その声に聞き従っていきます。
 9章41節で主は「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」とパリサイ人たちに言われました。
 自らの正しさに生きようとするパリサイ人たちは、羊飼いの役割をいただきながらも、盗人や強盗のようなことになってはいないか。本当の良い羊飼いとして生きているか、と問われたのですが、彼らにはこの例え話が理解できなかったのです。あるいは理解しようとしなかったのです。

7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

 わたしは良い牧者である、と続いて語られていくのですが、そのまえに、わたしは羊たちの門です、と言われました。
 門を通らなければ囲いから出ることも、囲いに入ることもできません。門があるので、そこに出入りすることのできる道が生まれます。その門から出入りをして、羊は生きていきます。イエスさまこそ、羊を生かす門である。
 イエスさまを「通って」人は生きる者となる。それは天国への門と考えてもよいし、あるいは日々生きていく私たちが、何をするにもイエスさまを「通って」行くことを大切にする。

 この春に飛行機での旅をしましたが、国を出る時も入るときも「門」を通らなければなりません。最近は顔認証なども導入されています。パスポートの写真が眼鏡をはずしたものだったので、眼鏡をかけて通ろうとすると、途端にゲートが締まります。手荷物検査も厳しい。身体検査も念入りです。銃を持った警備員たちもいて、日本にいてはなかなか感じることの少ない厳しい状況を感じます。
 しかしこの門からちゃんと入ると、大丈夫です。あるいはこの門があるから、安心してその国で過ごせます。過ごしてい間もパスポートは携帯しています。博物館や美術館に入るときも、パスポートを提示すれば、そこにちゃんと門を通ってきたことが記されています。安心して過ごせるのです。
 キリストを通って生きていく。生かされていく。一つの言葉を語るのにも、キリストというフィルターを通る。何をするにもキリストというフィルターを通る。あるいはキリストという筋道を通る。あるいはキリストを主とする、と言ってもよいと思います。
 イエスさまという門からちゃんと入る、イエスさまという門をいつも通る。そしてイエスさまを私の牧者として、その声に聞き従おうとする。そうして安心して過ごせるようにイエスさまは十字架と復活の御業を為してくださいました。イエスさまはそのような平安な日々を私たちに与えるために、自ら門となってくださり、自ら羊飼いとして私たちを導いてくださいます。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: