彼らが食事を済ませたとき

静まりの時 ヨハネ21・15~19〔招きのことば〕
日付:2024年10月10日(木)

15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。

 復活の主は弟子たちが食事を済ませたときに、ペテロに問いかけられました。食事が済むまでは問いかけられませんでした。じっと食事が済むまで待っておられました。お腹がくちくなった弟子たちに、神さまからの問いがやってくる。神さまからの問いは、私たちの状態が整っている中に投げかけられる。神さまからの問いがやって来たということは、その時が、私の一番整えられた時である。
 心と身体は一つです。心のケアが為されるということと、身体のケアが為されるということ。聖書を読むときも、あわただしく、やっつけ仕事のように読むのではなく、心を静めて、心身の状態が整う中で読んでいく。

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 イエスさまは、ペテロに三度「わたしを愛するか」と問われました。ペテロにとって三度というのは、意味を持った回数でした。イエスさまが十字架に向かわれる時、人びとから、あなたもあのイエスの仲間か、と三度問われました。その問いにペテロは三度、知らない、と答えました。今度も三度問いかけられるのです。ペテロは心を痛めました。
 ペテロは答えました。私があなたを愛することは、あなたがご存じです、と。胸を張って、はい、愛します、愛しています、ではなく、あなたがご存じです、とペテロは答えました。自分が愛する、ということをも、神さまの御手の中に見いだそうとしています。私の確かさではなく、神さまの確かさの中にゆだねようとしています。
 かつて、たとえ他の弟子があなたを裏切っても私だけは裏切りません、といったにも関わらず、三度イエスさまを知らないといったペテロ。自分の中にあると思っていた確かさが崩れたのです。あるいは崩されたのです。これは大切なことだと思います。神に出会う、ということは、こういうことです。悔改めるということは、自分の中の確かさが崩されるということなのです。
 私が神さまを愛する、ということさえも、神さまの御手の中にゆだねようとするペテロ。そのペテロに、わたしの羊を飼いなさい、と主は言われました。
 羊を飼う。子羊を飼う。かつて人間を獲る漁師にしてあげよう、とイエスさまはペテロに言われました。今度は、そのペテロに羊飼いとなれ、と言われます。ペテロは牧者としての召しを受けました。
 神さまは、自分が愛することも神さまの御手の中にある、と告白したペテロを、牧者として召されました。牧会者とは、自分が愛する、ということをも神さまの御手の中にゆだねた人のことです。またそうでなければ、牧会はできません。自分が愛するということを胸を張って言う、そういう人は、真実に隣人を愛することができません。隣人を愛することによって自己実現をしようとしているだけになってしまいます。それは愛していることではないのです。
 ひたすら主に仕える。ということがあって初めて隣人への愛が愛となるのです。

18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

 主はペテロに、自分の意志で、自分の力で、何もかもをコントロールする生き方から、他者にコントロールされる生き方になる、と言われました。若いときと年老いたときの違いによって誰しもそうなるのかもしれません。年老いると確かに自分ではできないことが多くなり、誰かにやってもらうことが多くなる。しかしその心は、誰かにやってもらうことを喜びとするのか、というと、年を取ると頑固になり、ますます自分の思い通りに周りを支配しようとする、ということもあるのではないか。
 主は自分ではコントロールできない状態をもって、さらにはそうして死んでしまうようなことをもって「神の栄光を現す」と言われました。神さまのご栄光が現される。確かに神さまは生きて働いておられる、輝いておられる、その存在感が明らかになった、というのは、何もできなくなった状態のペテロを通してもなされる。あるいは何もできなくなったペテロだからこそ、そこに神さまのご栄光が現われされる。
 私たちには、神さまのご栄光を現されることを願いながらも、結局自分の栄光を追い求めているのではないか、と思えてしまうことがあります。だからこそ、人間の力が全く及ばない、無力の状態の中にこそ、神さまのご栄光は鮮明になるのです。私たちは、自分の強さ、有能さ、器用さ、ではなく、自らの無力を誇らなければなりません。
 60をいくつか過ぎました。現代社会ではそれほどの年ではないと思うのですが、病気をしたこともあって、体力の衰え、気力の衰えを感じます。このところ涼しくなったので助かっていますが、夜身体を横にすると、力不足の心臓では血流が変わるのか、少し息苦しくなり幾度も目を覚まします。寝る、ということにも体力が必要で、なかなかしんどいことです。いっそのこと起きようかとも思うのですが、睡眠不足は心臓には大敵で、できるだけ寝るようにしています。難しいところです。できないことも増えていく感じがします。天国まではまだまだと思っていますが、それまでにやるべきことをやることができるようにと願っています。

最上のわざ

この世の最上のわざは何か
楽しい心で年をとり
働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り
失望しそうなときに希望し
柔順に、平静に、おのれの十字架をになう—
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり
弱って、もはや人のために投だたずとも、親切で柔和であること—
老いの重荷は神の賜物
古びた心に、これで最後のみがきをかける
まことのふるさとへ行くために—
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事—
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる それは祈りだ・・・
手は何もできないけれども最後まで合掌できる
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために—
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と—

(へルマン・ホイヴェルス著『人生の秋に』春秋社)
この話は、ホイヴェルス神父が来日して44年ぶりに故郷ドイツに
帰られたとき、南ドイツの友人から贈られたものである。

ホイヴェルス神父は、この詩を受けたとき「何と心がすっきりする
詩だろうか。このような老いの心境を学ぴたい」と記している。

1923年イエズス会宣教師として表日、1977年東京にて召天
(ホイベルス)


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