イエスは別の人に、「わたしに従って来なさい」と言われた

静まりの時 ルカ9・57~62〔招きのことば〕
日付:2024年10月08日(火)

57 彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
58 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」

 ある人が、イエスさまに向かって、イエスさまが行かれるところであればどこへでもついて行きます、と言いました。それに対して、イエスさまは、狐にも空の鳥にも、帰るところ、安住の場所がある、しかし人の子、すなわちイエスさまには枕するところもない。枕して休むところもない。常に安んじて過ごせるところがない、と応えられました。
 イエスさまに従う、と決意した者に対して、その決意によって生きていくということは、どのようなことであるのか、をお話しされたのです。
 誰もが枕するところ、安住の地を求めています。教会にやって来ることも、平安を求めてやって来るのです。安心したい。不安から解放されたい。そうして幸せに歩んでみたい。そう願って教会にやって来るのです。
 教会はどのような平安、枕するところを与えることができるのか。それは「枕するところがない」と言われるイエスさまに従っていく、という平安、「真の枕するところ」を教会は指し、その枕するところがない、という枕、平安を提供します。

 洗礼を受ける、ということには、主に従う、という決意が伴います。主に従うという信仰の決意がなければ洗礼を受けることができません。洗礼を受けて人は変わります。変えられます。どのように変わるのか。その人が、主に従う者となる、という変化をいただくのです。
 主に従う者となる、という変化によって、人間は、まことの平安、安心、不安からの解放、幸せな歩み、そしてまことの自由をいただきます。

 私は何ものにも捕らわれない、自由だ、という人がいます。しかしよく聞いてみると結局自分のわがまま放題に生きることを、自由、と言う言葉で表現されているだけで、結局、自分自身の感情の奴隷になっておられるように見えます。感情の奴隷になりやすい人は、案外扇動されやすい人で、扇動する人、人を操ろうとする人にとっては便利な人となります。結局、自分は自由だという人ほど、不自由の中に縛られていくのです。
 しかし神さまを信じるということは、自分自身の感情、それは大いに罪に彩られているものですが、それから解放されることです。本当の自由は、まことの神であり、私のために十字架上で命を捨ててくださるほどの愛をもって、ともにいてくださるイエスさまに従うことによって生まれます。

59 イエスは別の人に、「わたしに従って来なさい」と言われた。しかし、その人は言った。「まず行って、父を葬ることをお許しください。」
60 イエスは彼に言われた。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

 これは葬式をしてはならない、と言うことではありません。お葬式は大切なことです。ただイエスさまに従うということが為されていない中でのお葬式には、希望がありません。そのような希望なき葬儀ではなく、神さまの国、神さまのご支配の中にあるお葬式をする。まず行って、父を葬ることを許してほしい、というよりも、イエスさま一緒に来て、父を葬ることをともにしてください、と言えばよかったかもしれません。イエスさまは、どんな葬儀であってもその場にともにいようとしてくださいます。

61 また、別の人が言った。「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」
62 すると、イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」

 これも、イエスさまの召しに従っていくときに、家族の者への別れの挨拶は許されない、などということを言っているのではありません。たとえば、第一列王記19章20節では、預言者エリヤに従っていくエリシャがまず家族への別れをしたいと願った時に、エリヤはそれを許しています。
 鋤に手をかける、というのは、作業を開始した、ということです。作業を開始したのに、後ろを見ること。作業に集中することができないばかりか、本人にも危険なことです。人間は、なにもかもをすることはできません。人間として生きるということは、その時を生きる、ということであって、その時々を丁寧に生きないでは、人生を生きることにならないのです。後ろを振り向きつつ作業していては、人生を破壊してしまいます。
 イエスさまに従う、ということは、過去も将来もイエスさまの御手の中にゆだねて、その時、その時を大切に生きること、その時をしっかりと味わって生きることなのです。それがイエスさまに従うということであり、またイエスさまに従うという信仰によって生まれることです。
 洗礼を受けた、ということは、このようにイエスさまに従うとを決意した、ということなのです。

 日曜日から一泊二日で教職者のリトリートに出かけました。(それで昨日のこのブログは追加できませんでした。)
 リトリートでは、たとえば食事の間は黙食です。感染症対策というのではなく、それ以前から食事の時は黙食です。食事は施設の方が準備してくださいますが、自分のお皿に取り分けるのはセルフサービスです。その間も必要なこと以外は話しません。それぞれが準備を終えると、一緒に祈って食事をいただきます。食べているときは、食事を味わいます。自分で取り分けた食物を眺めて楽しみます。続いて食物を口に運び、かみしめ、かみ砕いて、呑み込み、それが食道を通り胃に落ちていく。その感触を味わいます。スマホをしながら、新聞を読みながら、テレビを見ながら、次のことを考えながら、あるいは過去のことを思いめぐらしながらの食事に馴れてしまっている現代かもしれません。しかしリトリートではそれらは一切せず、その時、に集中します。準備してくださった方の心を思いながら、ゆっくりと味わいます。
 食事の時だけではありません。廊下を歩いているときも、歯磨きをしているときも、荷物を運んでいるときも、ふと心がどこかへ飛んでいきそうになることも多いのですが、できるだけ目の前のこと、そして身体全体で感じることに集中します。丁寧にその時々を生きるのです。
 イエスさまに従うということは、そういうことです。

「イエスは『わたしについて来なさい(フォロー・ミー)』と言われました。近年ソーシャルメディアで誰かが発信する情報を継続的に受け取ることを「フォローする」と言いますが、私がフォローしているのはイエスでしょうか、それとも、何か別のものでしょうか。」(中村佐知、『主とともに退く~リトリートへの招き~』「第5回静まりとリトリート」、舟の右側、より


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