静まりの時 マタイ16・13~20〔教会の一致〕
日付:2024年10月05日(土)
13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
ピリポ・カイザリア。カイザリアとは、カエサル(皇帝)の地という意味です。もともとは違う名前だったようですが、皇帝の支配力が及んだのか、あるいはもともとの支配者がそれを望んだのか。この名前が付けられているということは、いずれにせよローマの支配の中にあることが明言されている空気がそこにはありました。そのような中でイエスさまは問われます。人の子をだれだと言っているのか。
14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
人の子。すなわちイエスさまについて、バプテスマのヨハネ、預言者エリヤ、エレミヤ、預言者のひとり、とそれぞれに世の意見をならべます。それらが確認されたうえで主は問われました。あなたがたは人の子をだれだと言うのか。
15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
シモン・ペテロは明確に、イエスさまのことを「生ける神の子キリストである」と告白しました。
17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
信仰の告白は、人間がするものです。しかしそれができるというのは、神さまの御業です。もしイエスさまをキリスト、救い主、私の主、と告白したとすれば、そこにすでに神さまは働いておられます。だれも神さまによらなければイエスさまを主と告白することができないからです(第一コリント12・3)。
ということは、真実な信仰告白は、自分が告白した、というよりも、主によって告白させていただいた、イエスさまを信じた、というより、イエスさまを信じるようにさせていただいた、ということになります。
18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
ここに「教会」という言葉が出てきます。イエスさまご自身が教会を建てる、と言われています。教会は、信仰を宣べ伝えるため、信仰者の交わりが豊かになるために弟子たちが便宜的に作った組織というのではなく、それ自体に信仰的な意味をもつものです。イエスさまのからだなのですから(エペソ1・23)。
イエスさまは、教会を「この岩の上」に建てると言われました。この岩とは一体何か。ペテロ自身なのか。それともペテロの信仰告白なのか。ここでシモン・ペテロに向かってあらためて「ペテロ」と呼びかけておられます。ペテロとは「岩」という意味です。ペテロは岩のように揺るがない信仰に生きた人だったのかというとどうもそうではないことが聖書によって明らかにされています(16・23ほか)。しかしそのペテロがイエスさまを主と告白したということ。それは神さまの御業である、とイエスさまご自身が言われたこと。そういうことから考えると、信仰告白のうえに教会が建てられてたと考えるべきだと思います。しかしそれでも、ペテロという人物も大切な存在です。弱さを持ちつつ、それでも信仰の告白に生きた人です。その上に教会を建てると言われた主の愛を思います。
19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
このペテロに、そして信仰告白共同体である教会に、イエスさまは天国の鍵をくださいました。教会は天国の鍵をいただいているのです。その鍵は、天国でつなぐこと、解くこと、を地上でもできるといいます。教会は、天国の扉を開いたり閉じたりすることのできる力をいただいているのです。地上にある教会が、その鍵によって、天国の門を開いたり閉じたりすることができる。なんという力、特権でしょう。畏れ多いことです。
罪びとの群れでしかない教会がそれを正しく使うことができるのだろうか。乱用してしまうのではないか。そんな不安も生まれるような大胆な言葉です。
教会はこのような信頼を神さまからいただいていることに畏れつつ、それを正しく使うものでなければなりません。あるいは、そのような権威が教会には与えられていることを、主にある者は大切にしていかなければなりません。
教会に与えられている権威にはいろいろあると思います。何よりも洗礼を授ける、という権威があります。あるいは教会組織において、さまざまな役割における召しの権威があります。また個人の生活においては冠婚葬祭における権威もあります。それぞれが単に人間的な決意によるのではなく、神さまの権威の中にあること、と教会は了解します。その了解がなければいずれも成り立ちません。人間の好き勝手で変化してしまいます。神さまの権威がそこにある、ということは、神さまに従うという従順と謙遜が必要になります。そうしてそれぞれが成り立つのです。
20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。
福音書にはこのような記述が幾度か出てきます。その出来事のあった「時」は、まだそれらが公にされる「時」ではなかった、と理解できると思います。そうすると今は、公にしてもよい「時」を迎えているのですから、私たちは大いに、イエスさまはキリストである、と多くの人に宣べ伝えることができます。そうしたいと思います。
その上で、少し思いめぐらせてみたいと思います。弟子たちに向かって、だれにも言ってはならない、と言われたこと。弟子たちの本来は、イエスさまがキリストであると宣べ伝えることだと思いますが、それをしてはならない、という。そこで、イエスさまの言葉に従うのか、そうでないのか。一体従うということはどういうことであるのか。これは良いことだからそうしよう、そうでないからしないでおこう。私たちはそう自分で判断をして行動します。しかしたとえそれが良いことのように思えても、イエスさまがしてはならない、と言われたら、自分の気持ちや考えがどうであろうとも、そのイエスさまの御言葉に従う。それが従う、ということなのだと思います。従う、と言いつつも、突き詰めてみると、結局自分の願望を行動しているだけということも私たちには起こりうるのです。
ではロボットのように従うことを、神さまは私たちにお望みになっているのか。そうではないと思います。喜びをもって主のお言葉に従う。それを待ち望んでおられます。となると、何よりも大切なことは、どれだけイエスさまと親密に歩んでいるか、が問われることになります。
昨日のアイソトープ検査というのは、なかなかおもしろいものでした。最初の点滴では、心臓に強制的に負荷をかけて運動状態にします。それが少ししんどいところですが、難なく終わりました。寝たままの状態で機器のなかに移動され、15分にわたって心電図をつけたまま撮影。さらに3時間近く時間を空けて再び撮影。その後出来上がった写真をもとに主治医の診察。結局一日がかりでした。結果は、可もなく不可もなく、心筋梗塞で壊死した部分はそのまま壊死していますが、そのほかはとりあえず緊急的な処置は必要ないとの判断でした。感謝です。