信仰により、キリスト・イエスにあって

静まりの時 ガラテヤ3・26~29〔教会の一致〕
日付:2024年10月03日(木)

26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

 この26節を他のいくつかの訳で見てみましょう。

「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」〔新改訳第3版]
「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」〔口語訳]
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」〔新共同訳〕
「あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。」〔共同訳2018〕

 神の子である、と言えるのは、イエスさまに対する信仰によってである、と単純に言えるのかというと、これらの訳が明らかにしようとしているのは、そう単純ではない、ということです。
 口語訳のように「キリスト・イエスにある信仰」というと、自分自身がイエスさまの御手の中にある、それが信仰である、という感じがします。新共同訳では「信仰により、キリスト・イエスに結ばれて」ですから、信仰が、イエスさまと私とを結びつけるもの、と理解できます。さらには、共同訳2018では「信仰」と訳さずに「真実」と訳し、その真実によって「キリスト・イエスにあって」と続きます。
 つまり、私が私の力、私の理解力、私のなにかによって、そこに信仰が生まれ、その私の信仰によって、神の子である、というのではなく、神さまの御働きの中に、信仰、というものがあり、その信仰、さらには神さまのご真実によって私は神の子である、ということができるというのです。
 信仰(真実)が、私の行為であるのか、それとも神さまの行為であるのか。その両方である、という感じがします。

27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。

 バプテスマ、すなわち洗礼とはいったいなんであるのか。私が信じた、という私の心の動き、決意といったものが土台となって、授けられるものなのか。すなわち洗礼とは私の決意表明なのか。それとも、神さまが、そのご真実をもって私という罪びとに授けて下さるものなのか。
 もし私の決意の見返り(少し言葉は悪いのですが)として洗礼が授けられるとすれば、それは私の行為に基づく義認となってしまうかもしれません。
 一方的な神さまの愛を聖書は語るのですから、むしろ私という罪びとに対して、神さまが一方的に洗礼を授けてくださる、それが洗礼である、ということをここでパウロは明らかにしようとしているのではないか。
 かといって信じてもいない者に対して、いたずらに洗礼を授けるということもおかしなことですし、起りえないことだと思います。ですから、信仰は、そして洗礼は、人間の行為であるとともに、神さまの行為である、神さまの行動である、と言わなければなりません。
 そもそも罪びとである私たちには、神さまを信じる、という力、素養はないのです。ですから信じたということであるならば、すでにそこに聖霊なる神さまがお働きになっておられる。真摯に、信じる、という告白するならば、私が信じた、とは言わず、おそらく、信じさせていただいた、というべきなのだと思います。
 信仰を持つに至った、ということにおいて、人間が誇るところは一切ないはずです。ですから、次の言葉が確かなものとなります。

28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。

 もし洗礼が、割礼のように、神さまへの応答とは言えども、人間の行為が前面に出るようなものであるならば、自らを誇るということが起るでしょう。人間が自らを誇る、ということが、信仰に忍び込んできたということ。それが、ガラテヤの手紙が書かれなければならなかった問題点です。
 ユダヤの人びとがアブラハムの子孫であることを誇ったようです。同じようなことが、ユダヤ人、ギリシア人の間でも起こった。奴隷と自由人の間で起こった。また男と女との間でも起こったのです。
 ユダヤ人がギリシャ人に対して、自由人が奴隷に対して、男性が女性に対して、その違いを誇ったというだけではありません。その逆も起こり得た。それは自分が否定的な立場にある、ということを、誇った、あるいはそれを利用して、自分は特別である、とした。それによって結果的に他者を差別した、ということも起こり得たのです。

 「キリスト・イエスにあって一つである」ということは、自らが何らかによって獲得した洗礼ではなく、一方的な恵みによって授けていただいた洗礼を受けたのだから、当然、キリスト・イエスにあって一つなのです。
 洗礼を受けた、授けていただいた、ということは、自分が罪びとであるということを認めたことです。教会は、そのように自分が罪びとであるということを認めた人たちの群れです。みなゼロベースとなったのです。それまでさまざまな価値観や思い込みによって生きてきたのですが、そういうことを一切取り払って、ただ神さまの一方的な恵みによって、神の子とされた、ということ。そこに立ってお互いをとらえ直していきましょう、と変えられたのです。それが教会共同体のあり方です。
 肯定的な意味でも(さまざまな賜物がある、豊かな経験があるといったようなこと)、否定的な意味(自分は罪を犯した、身体的・精神的ハンディを持っているといったようなこと)でも、自分に備わっている何かが信仰生活を成り立たせている土台である、とするならば、途端に交わりは破壊されます。またそういう信仰生活には、早々に限界がやって来ます。

「何ゆえ御神は かかる身をも 神の子とせしか 知るを得ねど
 わがより頼む主は 委ねたる身と魂を 守り得たもうと 確信するなり」(新聖歌357)

29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 キリスト教信仰に生きる、そして教会生活に生きる、教会の交わりの中に生きる、ということは、自分が「キリストのもの」である、ということが確かにされることによって可能となります。私が「キリストのもの」となるのであって、キリストが「私のもの」となる、ということではないのです。


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