私の神に感謝しています

静まりの時 ピリピ1・3~11〔とりなし〕
日付:2024年09月27日(金)

3 私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。
4 あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、
5 あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。

 誰かことを思う。そのたびに、神さまに感謝している。
 「私の神」という言葉が出てきました。誰かの神ではない。私の神さま。個人的な神さまとの関係の中に生きている。ここにも聖書の語る信仰が明らかにされていると思います。
 誰かのことを感謝する、ということは、その人のために祈るときに、喜びをもって祈ることです。誰かのことを思うたびに喜びが湧き上がってくる。それが感謝しているということです。
 さらにその喜びの源泉が、教会のはじまりから、ともに福音宣教、教会の前進の携わって生きたことにあると、語ります。いわば、同労者、であることを喜び感謝しているのです。
 伝道者は、ときに孤独の中にあります。しかし教会の仲間が、同労者、となって共に労してくださる。それがどんなに大きな励ましであり支えであるかと思います。伝道者といえども、完璧な人はいません。さまざまな欠けや弱さを持っています。それこそ、足りなさを指摘するならばいくらでもできるのです。伝道者としてせっかく召されたのにどれだけ多くの人がその働きを離れてしまったことかと思いますが、その中には、この奉仕の大きさに耐えられなくなったことや、孤独の中に沈んでしまったこと、自分の足りなさの中にどうすることもできなくなった人も数多くおられることでしょう。
 教会が前進することの鍵は、私は人材だと思います。いくら立派な教会堂があってもそこに人材がなければ福音は前進しません。同労者の喜びを大切にしたいと思います。

6 あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。
7 あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めているからです。
8 私がキリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、その証しをしてくださるのは神です。
9 私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
10 あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、
11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。

 祈りの焦点は、二つです。愛が豊かになること。そうして大切なことを見分けることができること。もう一つは、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となること。そうして義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現われること。
 信仰者としての成長と成熟。それは愛の成長と成熟です。愛が豊かになる、ということで、大切なものを見分けることができるようになる、そうパウロとテモテは考えていました。大切なものとそうでないものを見分ける、それは愛の豊かさによって可能なのだ、というのです。愛が育っていないと、大切なものを見分けることができない。大切なものを見落としてしまう、一方的な見方、偏った見方しかできないのは、愛が足りないからだ、というのです。
 キリストの日、すなわち再臨の日に備える。それもキリスト者としての大切な生き方です。どう備えるのか。純真で非難されるところのない者となる。そうして神さまの栄光と誉れが現される。キリスト教信仰の目当てだと思います。
 祈りのたびに、このような祈りを捧げる者でありたいと思いました。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: