静まりの時 民数記14・1~19〔とりなし〕
日付:2024年09月24日(火)
1 すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
2 イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。
3 なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」
4 そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」
約束の地を偵察したヨシュアとカレブの報告を聞いた民は、絶望しました。約束の地は確かに素晴らしい地でしたが、そこには勇壮な人びとが住んでいたからです。民はモーセとアロンに向かって不平を言いました。そして別のリーダーを立ててエジプトに帰ろうと言い出します。自分たちの願い通りの結果を出すならば、それを自分たちのリーダーと認めよう、そうでないならば別のリーダーを立てよう。それが民の心でした。
5 そこで、モーセとアロンは、イスラエルの会衆の集会全体の前でひれ伏した。
モーセとアロンは全会衆の前でひれ伏しました。それは全会衆に対してひれ伏したのか。それとも、全会衆の前で、神さまの前にひれ伏したのか。後でこの民のために、とりなしの祈りを捧げることを考えると、ここで神さまの前にひれ伏したのだと思えてきます。
6 すると、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブが、自分たちの衣を引き裂き、
7 イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。
8 もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。
9 ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
実際に約束の地を偵察したヨシュアとカレブは、民を説得しようとします。モーセとアロンにとって、この二人の存在はどんなに力強いことだったでしょう。
10 しかし全会衆は、二人を石で打ち殺そうと言い出した。
モーセとアロンに向かっていた不満と怒りは、今度はこのヨシュアとカレブに向かいます。
すると、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエルの子らに現れた。
11 主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。
12 わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剝奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。」
主の栄光が現われました。栄光が現われる、というのは積極的な印象を受けますが、それは信仰に生きる者にとってのことであって、不信仰の中にある者にとっては、主の栄光が現われるときは、裁きの時です。
13 モーセは主に言った。「エジプトは、あなたが御力によって、自分たちのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、
14 この地の住民に告げるでしょう。事実、住民たちは聞いています。あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主が目の当たりにご自身を現されること、またあなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱の内にあって、彼らの前を歩んでおられることを。
15 もし、あなたがこの民を一人残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は、このように言うに違いありません。
16 『主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、荒野で殺したのだ』と。
17 どうか今、あなたが語られたように、わが主の大きな力を現してください。あなたは言われました。
18 『主は怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰し、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。
19 この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」
民をさばこうとされる神さまに向かってモーセはとりなしの祈りを献げました。「どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください」。
モーセは、神さまがまことのさばき主であることを信じています。それと同時に、大きな恵みをお持ちのお方であることも信じています。
とりなしの祈りは、民への愛がなければ献げることができません。それとともに、神さまへの信仰と愛がなければ献げることができません。神さまが全き愛であることを信じていなければ献げ得ることができないのです。
伝道するということは、愛するということです。神さまを知らない人の首根っこを摑まえて信じろと説得することでは全くありません。信じないならば地獄に行くぞ、というのは、もはや説得を通り越して脅迫していることです。伝道することは、愛することなのです。
しかし人間の愛には常に限界があります。愛そうとして、自らの愛が枯渇してしまいます。人間である限り誰かを愛するためには、自分自身が愛されていなければなりません。神さまの愛に満たされていなければならないのです。もし神さまの愛に満たされることなく、誰かを愛そうとするならば、自らの内の満たされていないところを穴埋めをしようとします。結果、愛することができなくなってしまいます。伝道が自己実現の道具となってしまいます。それでは愛することとはなりません。
モーセは、決して完璧な人間ではなかったと思います。しかし自分が如何に完璧な人間でなかったとしても、神さまが愛であることを信じていました。その神さまが、自らを民を解放する者として召されたことを信じていました。自分の中に優れた賜物があったのではありません。むしろ何もない者であることを徹底して知らされました。召しを受けるということは、そういうことです。徹底的に自らが無であることを知らされたところで、神さまの呼び声を聞くのです。なまじ賜物があると、それが召された理由であると誤解してしまいます。そうなると愛であるはずの宣教が、そうでないものに変質してしまいます。
モーセは、神さまが、大きな恵みをお持ちのお方であることを知っていたのです。だからこそ民をとりなすことができたのだと思います。