静まりの時 出エジプト32・7~14〔とりなし〕
日付:2024年09月23日(月)
7 主はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。
8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」
9 主はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。
10 今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」
モーセが山に登ったままなかなか降りてこないので、民はしびれを切らし、アロンに「われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい」と願いました。アロンはその願いに応えてしまいます。アロンは、民が自らを飾っていた金(きん)を拠出させ、それで金の子牛を造りました。それを見た民は言いました。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」。アロンはこれを見て、その子牛の前に祭壇を築き、祭りを挙行します。祭りは盛り上がり「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れ」ました。
神さまはこのようになってしまった民に裁きを下そうとされます。
裁きを下そうとされた神さまは、そのことをモーセに打ち明けられます。私はここに神さまの愛があふれていると思います。私たちの神さまは、いつもこうなのです。ソドムを滅ぼそうとされたときにはアブラハムにそのことを打ち明けられました。ノアの時もそうです。いつもそうなのです。神さまなのだから、いきなり裁きをお下しになられても当然ではないかと私は思います。しかし神さまはそうはなさらず、御自身が為そうとすることを、私たち人間に言葉をもってお話しくださるのです。まるで、裁こうとする自らの手を止めてほしいかのように。
民はまことの神さまから離れ、自分たちの都合の良い神々をこしらえてそれを拝みました。このことを「堕落」と神さまは言われました。堕落というと、道徳的に違反した姿を想像しますが、聖書は、神さまが命じられたことから外れてしまったことを「堕落」と言います。またそれは「うなじを固くする」ことでもありました。馬は御者によってその鼻を行く方向に向けられると、身体全体もその方向に向いていきます。うなじが柔らかい馬はそのように御しやすいのです。しかしイスラエルの民はここでうなじを固くしてしまい、思う方向に歩もうとしない馬のようである。自分の考え、自分の願望、それらが神さまの御心よりも優先していまい、うなじを固くしてしまっている。それを「堕落」と、聖書はいいます。
うなじを固くするのはは、偶像礼拝や罪に向かう時でだけではありません。善に生きよう、愛に生きよう、あるいは奉仕をささげよう、とするときにも、私はこういう方法でやりたいのです、私はこのようにしたいのです、とうなじを固くする場合もあります。善につけ悪につけ、とにかく自分中心のとき、私たちはうなじを固くしています。
11 しかしモーセは、自分の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。
12 どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。
13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」
民をさばこうとされる神さまに向かって、モーセは「嘆願」しました。「ご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのか」「ご自身の民へのわざわいを思い直してください」。神さま、あなたが滅ぼそうとされる民は、あなたの民なのですよ。どうして滅ぼそうとされるのですか。
とりなすモーセは、民が神さまの民であることを見失いません。おおよそとりなす者は、そのとりなそうとしている存在が神さまのものであることを見失ってはならないのです。
家族のためにとりなすとき、その家族は私のものであるまえに、神さまのものであることを見失わないでおきましょう。兄弟姉妹のためにとりなすとき、その兄弟姉妹は神さまのものであることを見失わないでおきましょう。
14 すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。
神さまは、ご自分が為そうとしておられた民へのさばきを思い直されました。私たちの神さまは、「思い直され」る神さまです。定まったレールの上をひた走る列車のような冷徹な裁判官ではありません。思い直されるのです。裁きを下さずにはおれない義であるお方であるとともに、私たちの祈りに応えて下さり、わざわいを思い直してくださる愛であるお方、まことの裁き主なのです。