静まりの時 第一テモテ5・1~8〔長寿の祝福〕
日付:2024年09月20日(金)
1 年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、
2 年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。
教会に集うさまざまな人たちに対する接し方について具体的なアドバイスが書かれています。年配の人には、それが男性であれば父親に対するように、女性であれば母親に対するように、勧めなさい、といいます。
おそらく指導しなければならないようなことがあったのだと思います。そのときに、叱ってはいけない、父親に対するように、また母親に対するように勧めよといいます。勧める、というのは、パラカレオー、慰めるという意味で、変形の言葉としてパラクレートスとなると聖霊に対しても使われる言葉です。側に呼ぶ、という意味です。
立つ位置の問題かもしれません。上から下に語るようにではなく、かたわらに位置して、出来れば下に立つようにして、言葉を伝える。
若い人には、それが男性であれば兄弟に対するように、女性であれば姉妹に対するように、とくに真に純真な心で勧めよ、といいます。
おそらく独身であったであろう男性のテモテが、若い女性に対して勧める場合には、純真な心が必要である、と。
純真ということは、混ざりものがない、ということです。逆に、純真でない、ということは、混ざりものがある、ということです。混ざりものにはどんなものが想像できるでしょう。それらを排除して勧めをせよといいます。
3 やもめの中の本当のやもめを大事にしなさい。
4 もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。
5 身寄りのない本当のやもめは、望みを神に置いて、夜昼、絶えず神に願いと祈りをささげていますが、
6 自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても死んでいるのです。
7 彼女たちが非難されることのないように、これらのことも命じなさい。
8 もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。
やもめ、とはこの場合何らかの理由で独身となった女性のことです。社会福祉の整っていない時代に、このような社会的な弱者に対する福祉を、教会は大いに担っていました。それはユダヤ教からの伝統のようです。
しかし教会はやもめだからといって無条件に福祉の対象とはしなかったようです。もしかすると、テモテの遣わされた教会では、無条件に福祉の対象とされていたのかもしれません。それでさまざまな問題が教会に起こっていたのかもしれません。
もしやもめに、子どもか孫がいるならば、まずはその人たちに世話をさせよ、といいます。自分の家の人に敬愛を示すこと、そして親の恩に報いることを学ばせよ、というのです。
そうして本当のやもめを大事にせよ、といいます。本当のやもめとそうでないやもめとを峻別せよ、それは本当のやもめが非難されることのないようにするためである、と。
現実にはなかなか難しいことだと思います。現在のさまざまな福祉活動もこの点でいろいろな法律を作っているのではないでしょうか。とくに現代社会は福祉の財源を市民から集めた税で賄うことになっていますので、それを分配するには、市民から見て不公平のないようにしなければなりません。
ただ聖書は、一般的な平等の精神とか民主主義ということではなく、信仰の問題として語っているのだと思います。
自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのだ、不信者よりも劣っているのだ、と手厳しい。
信仰に生きているというならば、まず自分の家族を大切にせよ、というのです。家族を後回しにして、信仰、信仰、などとっいてもそれは空っぽの信仰だ、と。
信仰とは、一般的に宗教を信じているということを言っているのではありません。キリスト教信仰すなわち、十字架と復活の信仰、神さまが人となられて私たちのために死んでくださった、そうして私たちの罪を贖ってくださった、そのイエスさまを信じるならば、永遠の命に生きる者とされる。今も神さまはともにいてくださる、という信仰。その信仰を否定しているのだ、というのです。命を捨てるほどの愛をもって愛してくださっている神さまを否定しているのだ、と。
先日、ドクターイエローに出くわしました。
まだまだ真夏のような気温ですが、日が短くなりました。今日はお彼岸の入り。夕焼け空。