静まりの時 出エジプト20・7~17〔長寿の祝福〕
日付:2024年09月18日(水)
7 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。
8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
9 六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
10 七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。
11 それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
第3戒は「主の名をみだりに口にしてはならない」。
主の名をみだりに口にする、とはいったいどういうことか。自分の好き勝手に利用する、ということだろうか。やたらに、主の名を持ち出すことだろうか。
「みだり」を広辞苑でひくと、二つ目に「勝手気ままなさま。ほしいまま。こんてむつすむん地『~なる報着を離れ』」と書かれていました。この「こんてむつすむん地」とは、トマス・ア・ケンピスが書いたとされる『キリストに倣いて』のことです。もしかしたら、みだり、という言葉は、この本の翻訳において特別に使用され始めたのかもしれません。
第1~3戒は、神さまを愛すること。第4戒が安息日規定、第5~10戒が、隣人を愛すること。神さまを愛することと隣人を愛することが、第4戒の安息日規定で結ばれています。安息日において、私たちは神さまと隣人を愛することの両方を一つのこととして学びます。
第3戒の「主の名をみだりに口にしない」ということに続いて、第4戒の安息日の規定があるということから、この第3戒の説明として第4戒を読んでも良いのかもしれません。
みだりに口にしない、という方法をもって主を愛すること。それが安息日を守ることによって実践される。みだりに口にしない、すなわち黙る、沈黙する、ということを安息日を守ることによって行う。礼拝が礼拝となるために、礼拝は沈黙に支配されなければならない。
12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。
隣人を愛する戒めとして最初にあげられているのが、父と母を敬うこと。殺人でも姦淫でも盗みでもなく、両親を敬うことを隣人愛の最初にあげるところに、また十戒の特徴があるように思います。両親を敬わないことが、殺人よりも優先される戒めとなる。あるいは殺人や姦淫、盗みという罪も、その根本的なところを考えると、両親を敬う心が失われていることが原因となっているのではないか。
両親のひとりとなった自分自身を振り返ると、決して敬うことのできる両親ばかりではないことも事実です。しかし両親への何らかの確執が、その人の人生に大きく影響を与えることも事実だと思いますから、たとえ敬うことができないような両親であっても、その両親との関係が平和になることは大切なことだと思います。
敬うことができないような両親であっても、しかしこうして私という人間をこの世に生み出してくれたのですから、それだけで敬う可能性はあるかもしれません。敬うことができなくても、乗り越えることはできると思います。少なくとも、両親の負の支配の中に自分を縛ることから解放されることは大切でしょう。その解放の鍵は、自分自身の手の中にあるのだと思います。
自分の両親を考えると、決して立派な、あるいは秀でた人物ではなかったと思いますが、この両親でよかったなとしみじみ思うので、幸いなのだと思います。
両親を敬うことが、この地にあって長く生きることができる道を築く。すなわち人生の祝福の鍵なのだと思います。
13 殺してはならない。
14 姦淫してはならない。
15 盗んではならない。
16 あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。
17 あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」
なぜ殺してはならないのか。なぜ姦淫してはならないのか。なぜ盗んではならないのか。偽りの証言をしてはならないのか。隣人の家を欲しがってはならないのか。
さまざまに理由を挙げることができるのかもしれませんが、神さまを信じる私たちはシンプルです。神さまがそう言われるから。それだけで納得し、実践しようとします。
もしそれ以外に理由を上げよ、と言われるならば、どんな理由が思いつくでしょうか。
なぜ殺してはならないのか。殺す、ということが許容される社会というのは、殺されるということを許容する社会でもある、ということで、私はどんな理由があったとしても殺されたくないので、結果、殺してはならないという社会であってほしい、と思うのです。
重大な犯罪を犯した人に極刑、すなわち死刑を言い渡すのはあたりまえであるというのですが、それは自分や自分の子ども、孫が同様のことをしでかしたときに、死刑になっても仕方がないとすることです。冤罪ということもあるでしょう。重罪を犯すにはその背景やそれまでのいきさつもあるでしょう。被害者の無念ははかり知ることができないほどに大きなものですが、日本よりも厳罰化の大きな国は犯罪が少ないのかというと、かえって犯罪の多いところもあるではないか。犯罪に対する冷静な評価にもとずく罰を逸脱した厳罰化、ということは、人権が軽視されるということでもあり、結局犯罪は多発してしまうのかもしれません。死刑になるために、多くの子どもたちを殺してしまったという犯罪がありましたが、それは厳罰化が招いた犯罪と言わなければならないのではないか。
自分を超えた存在がある、そのお方が愛と義なるお方である、ということ。その信仰が鍵ではないか、と思います。