わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である

静まりの時 出エジプト20・1~6〔長寿の祝福〕
日付:2024年09月17日(火)

 出エジプト記20章にはいわゆる十戒が記されています。10の言葉をどのように数えるかは教会によって少し違いがあるようですが、多くは以下のように数えていると思います。

1,ほかの神があってはならない(3節)。
2,偶像を作ってはならない(4~6節)。
3,主の名をみだりに唱えてはならない(7節)。
4,安息日規定(8~11節)。
5,父と母を敬え(12節)。
6,殺してはならない(13節)。
7,姦淫してはならない(14節)。
8,盗んではならない(15節)。
9,偽りの証言をしてはならない(16節)。
10,隣人の家を欲してはならない(17節)。

 今朝の個所はこのうちの、第1と2の戒めとなります。
 ただこの戒めの前提として、重要なのが1,2節です。

1 それから神は次のすべてのことばを告げられた。
2 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

 神さまが、エジプトの地、奴隷の家から導き出してくださいました。これから十戒が語られる民は、神さまによって「解放」された民です。解放された民、自由になった民に向かって十戒は語られる。自由に生きるというのは、このような生き方なのだ、と語られている。十戒は自由の戒めなのです。
 十戒は、すでに救われた民に向かって語られているのであって、救われるための行いではありません。今だ救われていない者に向かって、このように戒めを守るならば救われる、というのではないのです。
 自由にされた今、あなたがたは、このような素晴らしい生き方をすることができる、と語られる、いわば救われた者の目標、お手本みたいなものなのです。
 最初に、あなたを救ったのは、わたしである、ということが宣言されます。すでに救われたのだ、と語られる。そしてその救いは、人間がなした業ではなく、神さまのなしてくださった御業であると語られます。
 これが不明確になると、十戒は、単なる律法主義の道具になってしまいます。ですから、十戒を読むについて、この前文はとても大切なものなのです。もし礼拝に取り入れるとすれば、救いが、福音が語られた後、礼拝プログラムの最後のほうがふさわしいでしょう。

3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。

 神さまは、すべての創造者であるので、唯一であるはずです。にも関わらず、ほかの神、を見出そうとしてしまう。当然、そこで見つかったと思う「神」は、本当の神、ではありません。にせものの神です。にせものの神を神として、幸せな人生を送れるはずがありません。創造者以外に、ほかの神、があってはならないのです。

4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。

 この「造る」という言葉は、「刻む(きざむ)」という意味を持っています。ここで大切なのは、偶像とは、人間が造ったもの、である、ということです。人間が、その欲望のままに、自分の都合の良いように「造る」。この造るということが戒められています。
 偶像というと、キリスト教会の歴史の中で他宗教の「像」を指したこともあったと思います。それも偶像になり得るとは思いますが、聖書の語る偶像とは、「自分の願望のままに自分が造る像」のことです。
 キリスト教的なさまざまな「像」も、そこに自分の願望を反映させ、自分の都合の良いように利用しようとするならば、それは偶像化します。宗教的な像だけではありません。偶像とは、英語では「アイドル」と言いますから、自分の願望のままに、あこがれて、それ以外目に入らない、ということは、それが偶像化しているということでしょう。お金も偶像化します。地位や名誉、さまざまな能力、力も偶像化します。賜物も、神さまから賜った物という意味ですが、それも単なる能力と理解されるならば、偶像化する可能性を持っています。
 こう突き詰めて考えて見ると、結局、偶像礼拝の根本的な問題は、自己中心、にあると言えると思います。

5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

 偶像礼拝を戒めることばの説明ですが、もし偶像礼拝におちいるならば、その咎に必ず報いると神さまは言われました。決して見過ごしにされないのです。しかしもし偶像礼拝から離れ、まことの神さまを愛し、その命令に生きるならば、恵みを施す、と言われました。神さまは、偶像礼拝から離れる、ことも、決して見過ごしにされません。
 心に留まるのは、偶像礼拝のその咎の報いが、3~4代に対して、まことの神さまを礼拝するならば、その恵みは千代に及ぶ、という言葉です。
 3~4代と言うと、せいぜい100年ぐらいでしょうか。それに対して千代というと、どれくらいの時間でしょう。4代を100年で換算してみると、その250倍ですから、25,000年(2万5千年)となります。気の遠くなるような時間です。あるいは千代というと日本語では「ちよ」と読んで、永遠にも匹敵する時間を現しますから、無限の祝福と考えてもよいのかもしれません。
 私たちは、罰と祝福を考えたとき、どうしても罰のほうを大きく考えがちかもしれません。しかし神さまは祝福を大きく考えておられます。神さまは、とにかく私たちを祝福したいと願っておられるのです。
 となると、礼拝説教において、罪と恵みが語られるとすれば、その比重は、圧倒的に恵みが中心となる、ということになります。罪を半分語り、恵みを半分語るのでは、聖書のメッセージを語ることにならない、ということです。神さまのお姿を誤解させてしまう可能性があります。
 私たちは、とになく、神さまは祝福の神である、気前の良い方である、ということを宣べ伝えたいと思います。


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