静まりの時 伝道者3・1~11〔永遠の思い〕
日付:2024年09月13日(金)
1 すべてのことには定まった時期があり、
天の下のすべての営みに時がある。
「時期」、「時」。この場合、神さまの御手の中にある「時」という意味であって、運命、ということではありません。
運命というと、なにやら冷たいレールの上をひたすら定められたままに進む、という感じがします。それに対して神さまの御手の中にある、というと、暖かい神さまのご配慮と、グッドタイミングを感じます。
すべてのこと、すべての営みは、神さまの御手の中にあること、なのです。
神さまは愛であるお方ですから、その神さまの御手の中にあるということは、そのこと、営みに、愛の意味がある、愛の目的がある、ということです。
決してうれしいこと、都合の良いことばかりでないのです。しかしイエスさまを信じる者は、すべてのこと、すべての営みが、愛の神さまの御手の中にあり、無意味なものは一つもない。すべてのことが、愛に実を結ぶと信じています。
9 働く者は労苦して何の益を得るだろうか。
10 私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。
11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。
神さまは、すべての造り主です。そのすべてのものを支配するようにと、これもまた神さまの創造物である人に委ねてくださいました。被造物を支配すること、あるいは労働は、神さまが人間に与えて下さった祝福の一つです。ですから人間は、労働への意欲をいただいています。この場合、単に仕事ということだけではなく、さまざまな営みをも含んでいます。人間は何かをすることを喜びとするのです。何もしないでいることが、逆に難しいのです。
しかしそのすべての営みも、神さま抜きで、あるいは永遠への思い抜きでは、むなしい。
永遠への思い。今なしていること、そのすべての営みが、無に消えてしまうものではなく、「永遠」に結びついている。むなしく消えてしまうことはひとつもない。
永遠が、永遠である限り、限りある人間にはそれを見極めることができません。もし限りある人間が見極めることができたならば、それはもはや永遠ではありません。
神学読書会が始まりました。一冊の神学書を少しずつ読んでいます。漢字の読み方、言葉の意味、その背景など、自由に質問しますので、一度に2段落ぐらいがやっとです。テキストは4,400円と少し高いと感じるかもしれませんが、おそらく数年かかって読むことになりますし、また、今後も繰り返し読まれるとよい本だと思いますので、決して高いことはないと思います。
最初に学んだことは、神さまのことを学ぶのですから、学びきる、あるいは学びつくすことはできない、ということです。また神さまを知る、ということは、その神さまが全知全能で唯一のお方であるならば、この「知る」ということは、限りなく「知られている」ということを知ることになる。そして学びの究極的な目的は、神さまの前にひざまずき祈る者と整えられる、ということで、結局神さまの前に謙遜になる。別の言葉で言うならば、自分は何にも知らない者なのだ、ということを知ること。それが真理を知る、ということです。そんなことを最初に確認しました。永遠への思い。その見極めることのできないものにむかって、しかしひたすら求めていく。それは限りなく愛に近い営みです。結局、神学するということは、神さまを愛するということなのです。