私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました

静まりの時 第一コリント2・11~16〔永遠の思い〕
日付:2024年09月10日(火)

11 人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。
12 しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。

 神さまのことは、神さまの霊、すなわち御霊、聖霊のほかにはだれも知らない。しかし主イエスさまを信じた者は、この世の霊ではなく、神さまからの霊、すなわち御霊、聖霊を受けたので、神さまが私たちに恵みとして与えて下さったもの、を知る。神さまが私たちに恵みとして与えて下さったもの、とは一体なんであるのか。
 この2章の1節には「神の奥義」という言葉が出てきます。神さまが私たちに恵みとして与えて下さったもの、それは神の奥義、福音、さらには神さまご自身のことです。
 私たち人間は神さまのことを、私自身の力、人間の力によっては知ることができない。しかし神さまが私たちに恵みを与えて下さった。神さまを知る、という恵みを与えて下さった。そのために御霊、聖霊を与えて下さった。私たちは、この与えて下さった聖霊によって、神さまを知る。神さまを知ったということは、すでにそこに聖霊が働いている。
 神さまを知る、とは神さまの恵みを知る、ということです。たとえば、私が妻を知る、ということは、水分が何パーセントで、組織がどのような成分でできているか、ということを知ったとしても、それはここでいう「知った」ということにはなりません。それと同じように、神さまとはどのようなお方であるのかを、いわゆる科学的に知ったとしてもそれは知ったことにはなりません。
 神さまを知る。それは神さまが恵み深いお方である、私を愛しておられるお方である、私をよく知っていてくださるお方である、ということを知ることです。
 私を知っておられる神さまを知る。私は知られている、ということを知ることでもあります。

13 それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。

 御霊のことば、とはいったいなんであるのか。いわゆる異言のことではありません。異言ならば、余計に意味が分からない言葉なのですから。
 御霊に教えられたことば、それによって、御霊のことを説明する。御霊の言葉、御霊によって教えられたことばとは、なんであるのか。それは十字架の言葉です。
 神さまが私を愛していてくださる、という神さまの恵みを知るのは、十字架によって知るのです。それ以外にはありません。十字架以外に救いはないのですから。十字架において、私の罪が解決された、赦された、神さまと和解ができた、ということを知る。
 それはまた自分自身が罪びとであることを知ることでもあります。十字架の言葉は、私が罪人であると語る言葉です。十字架の言葉は私の尊厳を傷つけるのです。神さまを知るためには、十字架の言葉によって私の尊厳が傷つけられること、を受け入れなければなりません。

14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。

 生まれながらの人間は、神さまの御霊に属すること、すなわち、御霊によって神さまを知る、十字架によって神さまを知る、ことを受け入れません。なぜなら、それらはその人間にとって愚かなことだからです。十字架のことばは人間には愚かなのです。
 それで理解ができません。難しいから、込み入った理論だから、高尚な論理だから受け入れられないのではありません。私の頭が悪いので受け入れられないのではない。私が高慢だから受け入れられないのです。主の十字架が愚かなことに見えるので理解できないのです。あるいは、自分の尊厳が傷つけられることをよしとしないから受け入れられない、理解できないのです。ようはプライドが許さないのです。
 イエスさまを信じる、ということは、この自分のプライドを捨てさせられることです。イエスさまを信じてもなお、プライドが傷つけられた、侮辱されたなどといっているのは、神さまを信じていない証拠です。あるいは、いわゆる神を信じているかもしれないのですが、少なくとも、主の十字架を受け入れていない、聖書の語る神さまを信じているとは言えないのです。
 御霊に属することは御霊によって判断するものなので、自らが罪人であることを認める、ということは、まさに神業です。

15 御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。

 御霊を受けている者は、すべてのことを判断する。しかしその人自身は、だれによっても判断されない。少しわかりにくい言葉であり、また誤解しやすい言葉です。意味は、御霊を受けている者、すなわち、御霊によって判断することができるようにしていただいた者、自らを罪びとであると告白し、十字架こそ私の救いであることを受け入れた者、そのようにへりくだる者、自らのプライドを捨てた者、謙遜に生きる者、そうして神さまのさばきのもとに身を置いた者は、もはや、だれによっても判断されない、裁かれない。もう自分自身が神さまの御手の中にある。

16 「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。

 この「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか」は、イザヤ40章13節の引用です。本来主の心を、罪びとでしかない私たちは知ることができない。ましてや主に助言する、アドバイスするなどということができるわけもない。当たり前のことです。しかし、祈りの言葉を聞いていると、案外、神さまにアドバイスしているのではないか、と思えるような時も無きにしも非ず。(笑)
 しかし、私たちはキリストの心をいただきました。御霊を注いていただきました。その洗礼式の時に、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けていただきました。洗礼を受けた者は、すべてもれなく聖霊を受けています。ですから、神さまの御手の中にあることに信頼して、もはや自らをさばくものは神さま以外に存在しないことに心安んじてよいのです。そうして神さまに知られていることを喜んで、その神さまの恵み、愛の中に憩う者であることを、ひたすら喜んでいればよいのです。神さまにアドバイスなどとんでもないことではありますが、しかし友として歩む者としていただいたので、もしかするとそれもありかもしれません。


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