静まりの時 箴言3・13~20〔真の知恵〕
日付:2024年09月05日(木)
13 幸いなことよ、知恵を見出す人、
英知をいただく人は。
14 知恵で得るものは金で得るものにまさり、
その収穫は黄金にまさるからだ。
15 知恵は真珠よりも尊く、
あなたが喜ぶどんなものも、それと比べられない。
「知恵」「英知」は、見出すものであり、かつ、いただくものです。見出そうとせずにいただくことはできません。しかし見出すことができたとすれば、それはあくまで自分で勝ち取ったものではなく、いただいたもの、授けて下さったものです。この二重のものであることを見失っては、知恵や英知に生きることができません。
16 知恵の右の手には長寿があり、
左の手には富と誉れがある。
17 知恵の道は楽しい道。
その通り道はみな平安である。
18 知恵は、これを握りしめる者にはいのちの木。
これをつかんでいる者は幸いである。
知恵に生きる者には、「長寿」「富と誉れ」「楽しい道」「平安」「いのち」「幸い」があると聖書は語ります。17節の「楽しい道」は共同訳では「友愛の道」と訳されていました。友愛とは、兄弟間の情愛、友人に対する親愛の情、友情、友誼、と広辞苑に書かれていました。友誼がまた難しい言葉ですが、同じく広辞苑には、友達のよしみ、友情、とありました。よしみとは、親しい交わり、親しみ、交誼。きりがありません。
とにかく、楽しい道、は、自分さえ楽しければそれでよい、という道ではなく、ともに生きるお互いが楽しい道を歩むことです。次の行にある「平安」も、新共同訳では「平和」と訳されていて、戦争のない状態を思わせます。知恵の道は、平和の道です。
19 主は知恵をもって地の基を定め、
英知をもって天を堅く立てられた。
20 主の知識によって深淵は張り裂け、
雲は露を滴らせる。
主は世界を創造されるとき、知恵をもって創造されました。地も天も、深淵も雲も、すべてに主の知恵が満ちています。その一つひとつの営み、現象も、主の知恵のなせる業である。主の知恵から離れては、何ひとつ存在しない。確かに花の一つを見ても、そこには人工では到底不可能な仕組みと営みがあります。
主は、きまぐれやなりゆきで創造されたのではなく、知恵、をもって創造されたのです。ですから被造物のすべての中に、主の知恵が詰まっています。それは被造物である人間にとってどこまでも、神秘、です。
被造物を知ることによって、主の知恵の深さ広さを知ることができます。それによって主がどのようなお方であるのかを知ることができます。被造物を知ること、そして、主を知ること。この二つは重なり合います。被造物の一つである「私」も、主を知ることによって、その知恵に触れることによって、より深く知ることができます。「私」だけを見ていても私のことはあまりわからないのですが、主を知る、そうして主の前に立つことによって、「私」を知ることができるようになる。
昨日から神学読書会が始まりました。アリスター・マクグラスの『神学のよろこび』を「まえがき」から少しずつ読み始めました。昨日は「まえがき」をざっと読んだのですが、今後は、1段落ずつで立ち止まり分かち合っていきたいと思っています。この書物の原題は「Theology:Basics」です。神学の基礎、という意味だと思います。これを訳者の芳賀力先生は「神学のよろこび」と訳されました。そこには、神学をすることは喜びである、とのメッセージがあると思います。神を学ぶこと、神の知恵を学ぶことは、神さまの被造物である人間にとって喜びなのです。今後も、この漢字はどう読むのか。この日本語はいったいどういう意味なのか、というところから分かち合っていきます。
正しい神学書とは、神さまのまえにひざまずくように導かれるものです。神学を学ぶ、ということは、人間の知恵を膨らませ、その賢さを誇示するのが目的ではありません。正しい神学書を、正しく読むならば、みな礼拝者となるのです。神さまの知恵に学び、真理に生きるということは、アビラのテレジアの言葉にあるように、謙遜に生きる、ということです。真理とは謙遜のことなのです。まさに「主を恐れることは知識の初め」です。そして主を畏れることは、知識の目当てでもあります。
神学書よりも聖書を学ぶほうが大切なのではないか、との意見もあるかもしれません。しかし聖書は、聖書を読んでいるだけではあんがい分からないものです。あるいは簡単に誤解できていしまうものでもあります。聖書をより深く学ぶためには、聖書をよく読んでいる人の本を読むことが大切であると神学校では教えられました。神学書もその一つだと思います。そもそも神学などいらない、という言葉自体、かなり強烈な神学なのです。
朝夕涼しくなって秋を感じます。読書の季節を迎えています。