主を恐れることは知識の初め。

静まりの時 箴言1・1~7〔真の知恵〕
日付:2024年09月03日(火)

1 イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言。

 「箴言」とは、広辞苑では一つ目に「いましめとなる短い句。格言」とあり、二つ目に「旧約聖書中の一書。格言・訓戒・道徳訓を多く含む。ソロモンの箴言」とありました。原文のヘブル語では、箴言のほかに、たとえ、あざけりの声、という意味もあるそうです。

2 これは、知恵と訓戒を知り、
 悟りのことばを理解するため、
3 義とさばきと公正において、
 訓戒を受けて、さとくなるため、
4 浅はかな者を賢くし、
 若い者に知識と思慮を得させるためのもの。

 この書の目的は、三つあり、一つ目は、悟りの言葉を理解すること。二つ目は、訓戒を受けて、さとくなること。三つめは、知識と思慮を得させること。同じようなことですが、これを聞くことにより、その聞いた人間が「変えられる」ということ、それが目的です。論語読みの論語知らず、という言葉がありますが、この箴言はもとより、聖書を読んでも一向に自分自身が変えられない、変わらない、のであれば、それは聖書を読んだことにはならない、のです。

5 知恵のある者は聞いて洞察を深め、
 分別のある者は導きを得る。

 箴言は、これを聞くあなたがたの内に「知恵がある」「分別がある」ならば、これを聞いて洞察を深め、導きを得ることになる、と語ります。聞く者の内に、知恵や分別がないならば、洞察を深め、導きを得ることができないのです。
 神さまは私たちをお造りになられたとき、私たちのうちに「知恵」「分別」を与えて下さったのです。創世記3章において、罪が入り、それらは破壊されてしまいました。しかしその「かけら」は残っています。すべての人は神さまによって創造されました。だからすべての人のうちに、この「かけら」は残っているのです。もちろんそれを人間の力で正しくもとに戻すことはできません。人間はどこまでも罪人です。しかし神さまによって造られたものである限り、この「かけら」すなわち、知恵や分別は残っているのです。神さまはそれを期待しておられる。そのかなり破壊されたものではあるけれども、知恵や分別を総動員して、これを聞くならば、洞察を深め、導きを得るのです。そこに神さまの奇跡がありまます。聖霊の働きがあるのです。だから、教会は世界に向かって宣教をしてきました。

6 こうして、箴言と比喩、
 知恵のある者のことばと謎を理解する。

 共同訳では「箴言と訓戒、知恵ある言葉と惑わす言葉を見極めるため」とありました。新改訳で「謎」と訳されている言葉を「惑わす言葉」と訳しています。つまり文意は、分別を得るということです。

7 主を恐れることは知識の初め。
 愚か者は知恵と訓戒を蔑む。

 知識の初めは、主を恐れる(畏れる)こと。主を畏れるということが、最初であり、また到達地点なのですが、なによりも、主を畏れることが、最初の一歩であり、こののち学ぶ知恵や分別のすべての土台である、ということです。
 「愚か者」は知恵と訓戒を蔑む(さげすむ)。共同訳では、侮る。侮る、というのは馬鹿にする、ということでしょうか。自分のほうが賢いとする、ということでしょう。どれどれ、それが本当に知恵の言葉かどうか私が判断てあげよう、と自分の賢さがつねに基準となっている。そういう人のことを、箴言は、愚か者、といいます。これは新約聖書にも貫かれていることです。

 主を畏れること。それは礼拝において養われるものです。養われているかどうかが、どのようなところで明らかになるのか。

1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
(ピリピ2・1~5)

 主を畏れる者であるのかどうかは、互いの交わりの中で明らかになります。


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