静まりの時 ヘブル13・6~9〔恵みに強められる〕
日付:2024年08月31日(土)
6 ですから、私たちは確信をもって言います。
「主は私の助け手。私は恐れない。
人が私に何ができるだろうか。」
7 神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。
8 イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。
9 様々な異なった教えによって迷わされてはいけません。食物の規定によらず、恵みによって心を強くするのは良いことです。食物の規定にしたがって歩んでいる者たちは、益を得ませんでした。
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがない。主イエスの教えが変わらない、主イエスの愛が変わらない、主イエスの義が変わらない、とも言えると思いますが、聖書は主イエスご自身が変わることのない存在である、と語ります。ポイントは主イエスに付随するものが変化しない、というのではなく、主イエスご自身が変わらない。
だからこそ、私たちは主イエスご自身により頼みます。イエスさまの教えにより頼む、イエスさまの愛により頼む、イエスさまの義により頼むことも事実ですが、何よりもイエスさまご自身により頼む。
しかしイエスさまは目に見えないので、どうしても目に見えるものに頼ってしまう。そういう弱さを私たちは持っています。人間により頼む、戒律により頼む、食物により頼む、ということをしてしまう。それらはいずれも過ぎ行くものですから、頼りにはならないはずです。しかしより頼もうとするので、いざそれが頼りにならないものであるということが明らかになったとたん、生きる道を見失ってしまう。今まで頼りにしていたのに、逆に恨みや反感、怒りを抱いてしまう。人間に対して、戒律に対しては、食物に対してそれを軽視してしまう。それはより頼むことの裏返しです。
この文脈の中に「神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい」とあります。素晴らしい証しをした先人に倣え、というのではなく、その信仰に倣え、といいます。彼らの生き方から生まれたもの、とはいったい何であるのか。それらを生み出した信仰とはいったいどのようなものであったのか。
たとえば、世界的な活動をすることになったマザー・テレサは、早朝のミサを欠かすことがなかったとか。しかもそのミサは、派遣さえた司祭によって執り行われるものであって、これは当然なことなのですが、自分で行うことはありませんでした。それは、自分のすべてが神さまにより頼まなければ成り立たたないものであることを、マザー自身よく知っていたということでしょう。おおよそキリスト者とは、イエスさまがおられなければ生きていけない人のことなのです。そのような先人たちの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰にならう。私もイエスさまなくしては生きていくことのできないものであることを告白する。昨日も今日も、とこしえに変わることのないイエスさまを見上げるのです。