静まりの時 哀歌3・25~33〔恵みに強められる〕
日付:2024年08月29日(木)
25 主はいつくしみ深い。
主に望みを置く者、主を求めるたましいに。
26 主の救いを
静まって待ち望むのは良い。
主のいつくしみ深さを知り味わうために必要なことは、主に望みを置くこと、主を求めること。主に望みを置かず、主を求めることをしないで、主のいつくしみ深さを知ることはできない。いくら味わい深く滋養に満ちている料理であっても、それを食べないでは、味わうことも栄養を得ることもできないように。
主が救ってくださるのだから、私たちは静まって待つ。もし静まって待てない、すなわち何かしら自分で活動しなければいられないのは、主が本当に救ってくださることを、心のどこかで疑っているからかもしれない。
27 人が、若いときに、
くびきを負うのは良い。
28 それを負わされたなら、
ひとり静まって座っていよ。
若い時の苦労は買ってでもせよ、といいます。しかし若いときだからこそ、若い力でがむしゃらに動いてしまう。主によってくびきを負わされたなら、ひとりになって、静まって、座る。くびきは、それを自分の力で解決をすることによって経験を積むのが目的ではなく、主が解決してくださることを知るため。あふれるような若い力を、おさめてひとり静かに座っている。自分を治める訓練の時。
29 口を土のちりにつけよ。
もしかすると希望があるかもしれない。
30 自分を打つ者には頬を向け、
十分に恥辱を受けよ。
口を土のちりにつける、というのは、それだけへりくだりなさい、ということでしょうか。自分を打つ者に向かって、頬を向ける。そうして打たれることを拒まない。中途半端な恥辱ではなく、十分に恥辱を受ける。
31 主は、
いつまでも見放してはおられない。
32 主は、たとえ悲しみを与えたとしても、
その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。
33 主が人の子らを、
意味もなく、苦しめ悩ませることはない。
十分な恥辱を受けるからこそ、主のいつくしみ深さを知ることができる。主のあわれみ主の愛を知ることができる。主への期待に生きることができる。主への期待、主への信仰がなければ、十分な恥辱を受けることは不可能です。
十分に恥辱を受けることができるかどうかは、信仰の問題なのです。
主は、意味もなく、苦しめ悩ませることをなさいません。新共同訳では「人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心なのではない」、共同訳2018では「人の子らを辱め、苦しめるのは 御心ではないのだから」。
苦しみ、悲しみの時。その向こうには必ず主の恵み、あわれみがある。それらは、主の豊かないつくしみがまもなくやって来る兆しなのです。
十字架において、十分な恥辱をうけられた主が、私たちの主となってともにいて下さいます。