キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい

静まりの時 第2テモテ2・1~6〔恵みに強められる〕
日付:2024年08月27日(火)

1 ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。

 強くなる。力をつける。何かをやり遂げる能力を持つ。言語では「エンドゥナモー」。ダイナマイトの語源になったといわれる「ドゥナミス」に接頭辞の「エン」がついた言葉です。「エン」は英語のインのようなことばで「~の中に」。強くなる、は、力の中に入りなさい、みたいな意味になるかと思います。筋力をつけて自らが強くなる、というよりも、力の中に自らが入っていく。イエスさまの恵みには、力があり、その力の中に入りなさい、と。
 昨年生まれた長女の三番目の子どもは、人見知りの時代を過ごしています。母親の手から離れようとしません。特に普段見かけない顔が見えるといろいろな手段を使って母親の腕の中に留まろうとします。母親の腕の中に入ると安心で、笑顔が出てきます。母親の腕の中には力があるのです。それと同じように、あるいはそれの数万倍もイエスさまの恵みの中には力があります。その中に留まっていく。自分には、あいかわらず力がないのだけれども、神さまの力の中にあるならば、大丈夫。
 イエスさまを信じたその時から、すでにイエスさまの恵みの中に生かされています。しかしその恵みを味わっているかと言えば必ずしもそうではありません。私たちが、イエスさまの恵みの中に、その力の中に留まることを、イエスさまは待ち望んでおられます。

2 多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。
3 キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。

 イエスさまの恵みによって強くなる、とはどのような信仰生活であるのか。
 一つは、「委ねること」。強められる、力を得る、というのですから、自分でできるようになることのはずですが、本当に恵みによって強められた人は、委ねることのできる人です。なんでも自分でやってしまわなければ気が済まないのは、自分の中に「恵みの力」が失われているのです。
 しかしそれは責任を放棄することではありません。イエスさまの恵みによって強められた人は、苦しみを共にすることのできる人です。ただ何でもかんでも苦しみを共にするというのではなく、キリスト・イエスの立派な兵士として、「私」すなわちパウロと苦しみを共にする。働き人たちと苦しみを共にする。福音宣教の苦しみを担っている人たちと、その苦しみを共にする。世界宣教、開拓伝道の報告を聞きながら、その困難を共有していく。地域教会に仕える伝道者たちの苦しみや戦いを共有しながら祈っていく。イエスさまの恵みによって強められた人は、そのような信仰生活に招かれています。

4 兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。
5 また、競技をする人も、規定にしたがって競技をしなければ栄冠を得ることはできません。
6 労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。

 伝道者は、キリストの兵士である。兵士は日常生活のことに煩わされていては、その職務を全うすることができない。ひたすら兵を雇った人、キリストのためにすべてを献げて労しなければならない。
 また競技者が、ルールに従って競技しなければ、栄冠を得ることはできないように、キリストに召された者も、キリストのルールに従って奉仕しなければならない。やみくもに活動するのではなく、神さまのルールに則って生きるようになる。
 労働している農夫こそ、最初にその収穫の分け前にあるかるべきであるように、キリストに召された者も、その収穫といえるさまざまなものの恵みを最初にあずかるべきである。愛は一方通行ではない。奉仕するフィールドから恵みをいただいて、自分も生かされていることを実感せよ。

 いったい何を言おうとしているのか。
 イエスさまに召された、ということは、いったいどのような生き方をするのか、を語っているのだと思います。この世にあって、この世の生き方とは違ったところで生きていく。
 キリストの恵みによって強められる、ということは、委ねることを知り、苦しみを共にする道を模索し、しっかりと地に足を付けつつも、この世に生きているのではないことを知っている。自分も生かされなければならない弱い存在であることをわきまていえる。
 もしキリストの恵み以外のもので、強くなろう、力を得ようとするならば、これらのことができなくなってしまう。キリストの恵み以外のもので、強められて何かを為したとしても、それではキリストの愛を宣べ伝えることにならない。人間の立派さを伝えることにはなるかもしれない。けれども神さまの栄光を現すこととはならない。

 伝道者は、いわゆる自転車操業なのです。何か高尚な知識や経験を蓄え、それを上から下に付与するなどということではなく、伝道者自身が、生かされている、ということの中にあってはじめて神さまの愛を語ることができる、ということなのだと思います。


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