静まりの時 マルコ7・31~37〔いやしの力〕
日付:2024年08月22日(木)
31 イエスは再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖に来られた。
32 人々は、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。
イエスさまは、異邦人の土地を巡って、故郷ガリラヤ湖に来られました。すると、人びとは、耳が聞こえず口のきけない人を連れてきて、彼の上に手を置いてほしいと「懇願」しました。この言葉は、原文ギリシャ語で「パラカレオー」。側へ呼ぶ、という意味ですが、ヨハネ14章16節の「助け主」(聖霊)の語源の言葉です。
人びとは、癒しを願って連れて来たのだと思いますが、彼らの直接的な言葉は、慰めてほしい、側にいてほしい、との言葉でした。
イエスさまは、その願いに応えられました。
33 そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。
34 そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。
まず、その人だけを群衆から連れ出されました。イエスさまと一対一の環境を整えられたのです。そしてご自分の指を彼の両耳に入れられました。さらに、唾を付けてその舌に触られました。自らのからだを、その人の苦しみの個所に、ぴったりとくっつけられたのです。
主は、一対一でともにいる、苦しみのところに直接触れている、ということをしてくださいました。
そして天を見上げて、深く息をされました。以前の訳では、深く嘆息して、となっていました。原文では、「ステナゾー」という単語で、苦しみの中で呻(うめ)く、という意味を持っているようです。主は、ご自身のからだとともに、その人の苦しみをご自分の苦しみとしてくださり嘆いてくださったのです。
そして「エパタ」と言われました。これは「開け」という意味である、と注釈がついています。エパタは、当時使われていたアラム語で、開け、という意味とのことです。アーメンやハレルヤ、マラナ・タ、などと同様に、福音書の書かれた時代には礼拝の言葉になっていた、ということでしょう。
35 すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。
耳が聞こえないその人に向かって、開け、と言われると、すぐに彼の耳が開いたのです。それに伴って、舌のもつれが解けました。そうしてはっきりと話せるようになりました。はっきり話せるようになって、最初に出てきた言葉はいったい何だったのだろうか、と想像します。ありがとうございます、ご覧くださり話せるようになりました、でしょうか。
36 イエスは、このことをだれにも言ってはならないと人々に命じられた。しかし、彼らは口止めされればされるほど、かえってますます言い広めた。
37 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口のきけない人たちを話せるようにされた。」
イエスさまとともに話せるようになった人が、彼を連れてきた人びとのところに帰っていくと、驚きが広がりました。イエスさまは、このことをだれにも言ってはならないとその人々に命じられました。しかし彼らは、口止めされればされるほど、かえってますます言い広めました。
イエスさまは、癒やしを見世物にされません。宗教の宣伝の道具にはされないのです。私たちも、癒しのために祈ります。心から祈ります。その祈りは、イエスさまが一対一の環境を整えられたように、神さまと一人の人間との間に起こった個人的な、そして歴史上一回限りの貴重な出来事であることを自覚してなされるものです。また苦しみの中にあるひとと、寄り添う、ということがあっての祈りです。それを欠いては、聖書の語る癒しとはなりません。
ここに科学と信仰の決定的な違いがあります。科学は反復可能なものです。しかし信仰は、それが人格的な愛の出来事である限り、歴史上一回限りの宝物のような出来事なのです。私たちはそのことをわきまえて、癒しのために祈ります。