人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために

静まりの時 マルコ2・1~12〔いやしの力〕
日付:2024年08月20日(火)

1 数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。
2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。
3 すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。

 イエスさまは「みことば」をお話しになっておられます。「すると」、そこに人びとが中風をわずらう人を連れてきました。み言葉が語られる。そこにいやしを求める人がやってくる。いやしが行われているのを見聞きして、そこにいやしを求める人が集まるならば分かりやすいのですが、聖書はそうは語りません。み言葉が語られている。そこにいやしを求める人がやって来た、というのです。イエスさまに遣わされる教会は、病に苦しむ人のためにいやしを祈ります。しかしそれは、み言葉を語るということが先立ってのことです。教会は、礼拝において、あるいは伝道集会においてみ言葉を語ります。もしそこにいやしを求める人がやって来るならば、その人の苦しみに寄り添いながら、健やかな歩みのために心から祈ります。しかし間違っても、いやしのためだけの集会、いわゆるいやしの集会、は行いません。

 イエスさまは、連れてこられた中部の人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われました。罪の赦しの宣言をされたのです。いやしを求める人に、罪の赦しを宣言する。ここにキリスト教会のあり方が明らかにされています。
 このイエスさまの発言は、そこにいた律法学者に疑問、あるいは反感を生みました。イエスさまは彼らに言われました。

9 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。
11 「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
12 すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。

 人の子、すなわちイエスさまが、「地上で罪を赦す権威を持っていること」を「あなたがたが知るために」、そう言って中風の人に、起きて、床をたたんで、帰りなさい、と言われました。すると中風の人は、その「おことば」の通りにいやされました。それを見た人びとは驚き、神さまをあがめました。
 イエスさまは、ご自身が罪を赦す権威を持っていることを私たちに知らせるために、いやしを行われました。とすると、私たちはいやしを目の当たりにしたとき、そこで知らなければならないのは、イエスさまこそ罪を赦す権威をお持ちのお方なのだ、ということになります。
 イエスさまが罪を赦す権威をお持ちである、ということを知る。そのために、いやしが、あるいは神さまの御業がある。神さまの御業にあずかり神さまを信じたと言っても、罪の赦しの権威がイエスさまにあることを学ばないならば、その「信じた」は聖書の語る信仰とは言えない。
 罪の赦しの権威がイエスさまにあることを知るためには、まず自分自身が罪びとであることを知らなければならない。そしてその罪は、自分ではどうすることもできない深いものであることを知らなければならない。罪が解決されない限り人生には幸せがやってこないことを知らなければならない。自分にとってなくてはならいないものは、罪の赦しなのだ、ということを知らなければならない。どこまでも、自分の罪、そしてその罪を赦してくださる神。それがキリスト教信仰のはずすことのできないテーマなのです。
 ですから教会は、いつも罪を語ります。そして罪を赦す神さまの愛を語ります。イエスさまの十字架と復活を語るのです。

 昨夜半から雨になりました。猛暑が続いていましたが、今朝は少し涼しい朝となりました。


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