イエスはその人を抱いて癒やし、帰された。

静まりの時 ルカ14・1~6〔いやしの力〕
日付:2024年08月19日(月)

1 ある安息日のこと、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られた。そのとき人々はじっとイエスを見つめていた。
2 見よ、イエスの前には、水腫をわずらっている人がいた。

 食事に誰かを招く。あるいは招かれる。親交を、友好を深めるために食事の席が用意されます。ユダヤの社会では、食事は、信仰とも深くかかわっていましたから、さまざまな意味でとても大切な場所でした。
 イエスさまは、そのような場に行かれました。イエスさまを招いたのは「パリサイ派のある指導者」です。パリサイ派ときくと、私たちはイエスさまの敵のような印象を持ちます。しかしイエスさまはそのような人物の招きにも応じられました。
 そこに「水腫をわずらっている人」がいました。ただいただけではありません。イエスさまの前に座っていました。
 水腫をわずらう、ということは、当時、不道徳な生活の結果わずらうことになった病と言われたそうです。もちろん現代ではそういうことは全くありません。しかし当時はそのように考えられていた。そうすると、水腫という苦しみに重なって、不道徳な生活をしているというレッテルまで貼られることになった。肉体の苦しみだけではなく、精神的な苦しみ、あるいは社会的な苦しみも重なることであった。
 それにしてもなぜこの人がイエスさまの前に座っていたのでしょう。あるいは座らされていたのでしょう。容易に想像できるのは、イエスさまを試すためであった。あるいは少し想像が過ぎるかもしれませんが、イエスさまが招かれたときに、イエスさまご自身が、一緒に行こうではないか、と誘われたのではないか。そんなふうに想像している説教集もありました。それは逆に、イエスさまご自身がパリサイ人たちを試すためであった、とも考えられます。もちろん彼をそんな道具のようにしようと思われたわけではないと思います。パリサイ人の前でいやすということは、ただいやされるということ以上に、この人にとって大きな意味があった、ということかもしれません。
 人びとは「じっとイエスを見つめていた」といいます。安息日に病の人をいやすかいやさないか。いやすならば律法違反である。いやさないならば、律法違反ではない。そんなイエスさまを試すような目で見つめていたということでしょうか。
 イエスさまを見つめる。それは、多くの場合信仰が生まれる時です。しかし、どのような思いをもって見つめるのか。その思いによっては、どうも信仰が生まれる時とばかりも言えない。信仰をもってイエスさまを見つめる。愛をもってイエスさまを見上げる。その心が問われることでもあります。
 イエスさまは、律法の専門家たちやパリサイ人たちに対して、「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と問われました。
 問いですから、答えることが期待されています。しかし彼らは、黙っていました。答えなかったのです。それで、イエスさまはその人を抱いていやされました。そして帰されました。
 それから、律法の専門家、パリサイ人たちに向かって言われました。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか」。安息日であるかないかに関わりなく、愛する者や大切な存在が窮地に陥っていたならば、それを助けようとすることは、当たり前のことではないか。それは律法にかなっていることではないか。どうして律法にかなっていないなどと言えるだろうか。
 おそらく律法の解釈によって出てきた細かい規定において、安息日に「いやし」を行うことが、律法違反とされたのだと思います。しかし律法そのものの本来の精神においては、安息日であろうがなかろうが、いやしを行うことは、違反でも何でもない。むしろ安息日の本来の意味を考えるならば、推奨されることではないか。
 安息日という言葉が、登場するのは、出エジプト記の20章、十戒の中においてであると思います。エジプトを脱出した民に、新しい生き方を教える中で、安息日を守るようにと、神さまは言われたのです。それは、神さまの創造の御業が根底にあってのことだと思います。世界を「6日」で創造された神さまは、7日目に「なさっていたすべてのわざをやめられた」そして「第7日を祝福し、この日を聖なるものとされた」。祝福された日、聖なるものとされた日。それは「その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられた」からである、といいます。
 聖なる、とは神さまのものである、という意味です。またこの日は、祝福された日でもあります。祝福と訳されている原文の言葉は、ほめたたえる、良い言葉をいう、といったような意味を持っています。神さまに向かってほめ讃える、感謝する、喜ぶ。つまり祝祭の日である、というのです。この日を神さまを喜ぶ祝祭の日とする。何もしないどころか、むしろ神さまをほめ讃えるのに忙しい日です。

 神さまのものである、ということは人間のものではない、という意味にもとれますが、祝福された聖なる日ということは、私たち人間が本当の人間となる日、あるいは人間に戻る日、人間であることを確かにする日、とも言えるのではないか。

 神さまをほめ讃えるのに忙しい日というと、私たち罪びとは途端に、人間の活動が前面に出てしまいます。この日は神さまがふるまってくださる日である、と受け止める。神さまがふるまってくださるのだから、それを一所懸命に喜ぶ日、それが安息日なのだ。神さまの御業を喜ぶ、神さまご自身を喜ぶために、全身全霊を傾ける。そのために、私たちは、安息する。それが安息日の過ごし方なのだと思います。だからこそ、安息日は礼拝の日なのです。
 そんな喜びの日であるならば、そこに、肉体の苦しみ、精神の苦しみ、社会的な苦しみを抱いて途方に暮れる者がいるならば、そしてその人が、愛する人であり、大切な存在であればなおさら、いやすことなど当然のことではないか。それがイエスさまの答えだったのだと思います。

6 彼らはこれに答えることができなかった。

 反論しなかった。同時に賛同もしなかった。判断を避けた。彼らにもどこか納得できるところがあったからか。それとも言い負かされたと感じて面白くなかったのか。反感だけにとらわれていたのか。
 本当にそうですね。いやこれですっきりしました。安息日の本来の意味が分かりました。ありがとうございます、と言えばそれで良いのではないか。また水腫をいやされたその人にむかって、いや、よかったね、今日は特別の日だ、さあ一緒に食事をしようと、言えばよいのではないか。なぜそうならないのか。彼らを支配しているこの沈黙はいったい何なのか。ここには人間の深い闇があるように思います。

 イエスさまは、水腫にわずらう人を、ただいやされただけではありませんでした。聖書には、抱いて、いやし、帰された、とあります。抱きしめてくださいました。機械的にいやされたのではありません。愛してくださいました。そして帰してくださいました。彼の生きる世界へ。日常へ、人生へ、帰してくださいました。人生を取り戻してくださった、といっても良いと思います。


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