主はご自分の民を平安をもって祝福される

静まりの時 詩篇29・1~11〔平和の祝福〕
日付:2024年08月16日(金)

10 主は大洪水の前から御座に着いておられる。
 主はとこしえに王座に着いておられる。
11 主はご自分の民に力をお与えになる。
 主はご自分の民を平安をもって祝福される。

 旧約聖書において大洪水と言えばノアの洪水(創世記6章~)のことを思い起こします。
 世界が罪にあふれかえってしまったのを悔やまれた主は、大洪水によって世界の罪を一掃されます。ただノアだけは義なる者と認められ、主はノアとその家族を救い出されました。
 地上に人の悪が増大してしまった。人の心に図られることはみな、いつも悪に傾いてしまう。それが大洪水の前の状態でした。その時主は御座に着いておられなかったのか。主は主でなかったのか。この詩篇の筆記者は、いや「主は大洪水の前から御座に着いておられる」と歌いました。主はとこしえに王座に着いておられるのだ、と。
 とこしえ、すなわち永遠とは、人間の理解力を超えている言葉です。私たちも、私たちを取り巻く世界も、すべて永遠ではありません。始めがあり、終わりがあります。
 神さまは、はじめに天と地を創造されました。はじめ、つまり最初に神さまは創造された。ではその前は世界はどのようなことであったのか、と問いたくなるのですが、この「はじめ」が、おおよそ私たちの考えるはじめを超えているので、この問いは成り立ちません。神さまは時間を超えておられるからです。
 いついかなる時も、主は王座に着いておられる。主は、主であり王であることをお止めになったことは、一瞬たりともない。それが聖書の語る神さまなのです。たとえ神さまはどこにおられるのか、と問いたくなるような現実においても、そこに主は王座に着く存在として君臨していてくださいます。
 そのお方が、主の民、すなわち私たちに力を与えて下さいます。そして平安をもって祝福してくださいます。新共同訳では「主が民を祝福して平和をお与えになるように」。
 祝福と平和は密接に結びついています。祝福されていると言いつつ平和でない、平安がない、戦いが起こっている、というのは祝福ではありません。
 平安とは、私の内面において、戦いがない状態です。逆に、私の内に戦いがある、とは、私と私の関係において戦いがある、ということです。私が私を見て、こんな私ではなかった、と私自身を受け入れられない。私の過去の歩み、その出来事を思い返して受け入れられない、ということもあります。今さまざまな状況の中にある私を受け入れられない、ということもあります。本当の私は、もっと素晴らしい人間なのだ、もっと輝いているのだ、との願望に縛られ、現実の自分、ありのままの自分を受け入れることができない。そのような戦いの中にある人生であれば、そこには平安がないのです。そして祝福があるとは言えないのです。
 平和とは、私の外面において、戦いがない状態です。私と誰か、私と何か、との間に、戦いがある、ということは、平和でない、ということです。
 戦いがない、と思っていても、それは自分がそう考えているだけで、自分の思い通りに周りを支配しているだけであったりもします。周りも支配されているようですが、本当は周りから距離をとられているだけで、それで戦いがないと思い込んでいる。そうであればちょっと哀れな状況である、と言わざるを得ません。
 できるだけ平和でいたいと思います。しかし、私と誰かとは、あるいは私と何かとは、別の存在です。考え方、あり方、歴史、気性、その他あらゆるところに違いがあります。そうであれば、戦いがない、ということのほうがおかしいことではないか、とも思えます。戦いがあることこそ普通である、ノーマルである。
 共感と同感との違いを論じている書物がありました。共に生きる者同士が、互いの境遇や出会っている出来事に共感しながら生きていくところに、麗しい人間関係が築かれる、というようなことだったと思います。この共感に対して、同感は厄介な感情というか、状態である、とのこと。同感、あるいは共鳴と言ってもよいと思いますが、自分と相手との間に距離感がなくなり、その境界線が消滅してしまう。まるで自分の考えていることと相手の考えていることが同じとなってしまう。そう錯覚してしまう。
 この世に生まれて大人となっていく、ということは、この境界線をしっかりと築いていくことでもあります。違いがあって当たり前のお互いが、それでも平和に生きていくために、自分の感情をコントロールし、相手の気持ちを慮り、言いたいことを治め、言うべきことを語り、そうして生きていこうとする。人間の熟成が求められるところだと思います。
 人間、年をとればそのように熟成されるのかと言えば、そうではありません。多くの場合、年を取ると前頭葉がゆるくなり、怒りっぽくなったり、こだわりが強くなったりします。鍋物で言うと、煮詰まる、という状況となるのです。気の短い人はますます短く、こだわりの強い人は、ますますそのこだわりが強くなる。ですから、人間はいつも成長段階にあると自分自身をわきまえて、自己研鑽、訓練を続けていかなければなりません。
 礼拝生活、信仰生活、教会生活は、この熟成を私たちに与えてくれます。神さまを主として、そのお方の御前にひれ伏し、自らを戒めていく訓練の時と場です。ですから、まちがって信仰生活を自己実現の場と錯覚していると、一向に熟成されません。むしろ煮詰まっていくことに拍車をかけます。
 平和と平安とは結びついています。私と誰かとの間が平和であれば、私の心は平安である。あるいは私の心が平安であれば、私の周りには平和が築かれていく。やたら人との関係に問題を起こすとき、それは自分の内面においての戦いがある。どんなに自分の周りに戦いがあり平和でなくとも、心のうちに平安がある。平和と平安は、単純ではなく複雑に結びついています。
 主が主であることを受け入れて、平安に、そして平和に今日も生きていきたいと思います。感謝。


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